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だれもが「正義のヒーロー」になり、だれもが「悪役」にまつりあげられてしまう現代。その生き方

胃腸が強い方なので、胃腸炎にかかった次男が手を付けたスープが残っていてもったいなかったので飲んだところ、翌日に39度の熱にうなされた代表の内藤です。幼児が保持するウィルスは本当に危険...。

クリスマス・イヴに全く関係のない記事を。

今回は、「絶対正義、絶対悪がいて、絶対正義が正義の力で勝つ」という勧善懲悪の考え方が、現代においてネットリンチの温床や、 思考力の低下につながっているのではないか、というお話を書かせていただきます。

「悪いことをした人間は何をされても文句は言うな」

SNSを開けば、今日もわかりやすい悪役がまつりあげられて炎上しています。
特にテレビのワイドショーでは芸能人の違法行為については、娯楽のように扱われています。まるで芸能人には人権がない、ひとつの架空コンテンツかのように。

そのニュースがフェイクかどうかは二の次で、娯楽的要素があればそれで良い。Netflixのブラックミラー的な世界が、SFの世界ではなく、現代の今として存在しています。

違法行為は肯定されるものではありません。

そこに異論を唱える人はいませんよね?
しかし、違法行為を行った人に対して、社会的制裁を誰が行っても良いでしょうか。
違法行為自体にも、非常に感情的にならざるを得ないもの、ただのコンテンツとして消費できるもの、いくつかのパターンはあります。
とはいえ、全く関係のない人間が、違法行為を行った人に対してSNS等を通じて社会的制裁を加える意味はどこにあるのでしょうか。

なぜそれは法律で禁止されているのか?

例えば、覚醒剤やドラッグは依存性があり、人体への影響があるので違法です。ではアルコールや喫煙は人体への影響はないのでしょうか?
なぜこれらは違法ではないのでしょうか?違法と合法の明確な違いは?

歴史的、社会的背景を理解せず、「違法だから違法なんだ」と思考停止してしまうことはとても危険です。

経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査(PISA 2018)の調査結果が色々なところで議論を呼んでいます。
 特に「読解力が低い」と話題になっています。
調査結果を参照されるとわかる通り、これは「読解力」というよりかは、「思考力」、「判断力」に対する評価と解釈ができます。そして文科省では、この思考力、判断力を向上できるように取り組まれています。

思考停止しつづけると何が起こるか

思考力が低い、もしくは思考停止になると何が問題なのでしょうか?

例えば、日本国内では「決まりは決まり」と思考停止し続けた結果、状況の変化に適応できていない状況が散見されます。

学校教育では、文科省の方々が大変なご苦労をされながら、世界の状況変化への適応するためにあらゆる調整をされています。これも、あと10年早ければ、もっと小さく始められていたら、混乱は少なかったかもしれません。

また、高卒採用の一人一社制の慣行についても、過去、社会を知らない学生を守るために存在した慣行が、現在では、企業と生徒のミスマッチの原因になってしまっています。これも状況の変化に適応できていない、ひとつの例です。

停止した思考をふたたび動かす

「決まりは決まり」の背景にあるのは、勧善懲悪の娯楽に慣れきってしまった私たちの思考停止が存在していると考えています。

この思考停止を、もう一度動かすためにどうするかを考えてみましょう。

「アイツは悪いことをした人間であり、何をされても文句は言えない。」
この発想は、誰にとっても未来はありません。

この発想からもう一歩進んでみましょう。

・なぜその人はその行為をしなければならなかったのか
・他にも似たような人はいるのではないか?
・社会や仕組みに問題はないのか?あるとすればどうすればいいか?
・私たちが今すぐその人たちへできることは何か?

これといった正解もないものですね。
こんなこといちいち考えて生きたくないわ。そういう感想を持った方もいらっしゃるかと。もう少しだけお付き合いください。

例えば、顔がアンパンでできている方が、バイキンでできている方を日々暴力で問題を解決している状況があったとして

・なぜバイキンでできている方はその行為をしなければならないのか?
・何が問題の背景にあるのか?
・どうすることで解決ができるのか?

この辺りの改善が行えると、また違った世界が描けるのではないでしょうか(あくまで例です。私自身は天丼の方が好きです)

例えば時代劇において、悪代官と称される方がいて

・なぜ悪代官はそれを行わなければならなかったのか
・当時の悪代官が置かれている経済状況は
・悪代官の生い立ちは
・その悪代官が助けたかった人は誰なのか

思考力、想像力が試される話です。

私たちはテレビやSNSで流れてくるニュースや情報、中にはフェイクニュースも混在している中で、この思考、想像するという労力を使うよりかは、思考を停止して、娯楽として消費することに慣れきってしまいました。

この思考力、想像力を動かすことができるか、どこまで身につけられるか。
私たち含めて、学校教育の課題です。

まとめ。 映画「ジョーカー」が問いかける現代

バットマンの宿敵ジョーカーの誕生を描いた映画「ジョーカー」が世界で話題となりました。分断が進んだ現代において、勧善懲悪の"善"とは誰のことで"悪"とは誰のことなのか、その境界線すら曖昧になってきています。

誰しもが一瞬で正義のヒーローになり、誰しもが悪として簡単にまつりあげられてしまう現代において、勧善懲悪は機能しません。
なぜそれが行われなければならなかったのか?その情報は本当に正しいのか?情報元の正義は、別の目線から見た時の悪ではないのか?このように情報をうのみにせず、その背景を理解する時代に来ているのではないでしょうか。

つまり、「勧善懲悪のその先の時代」に来ているのではないでしょうか。私たちはとまどいながらも、この情報化社会で少しずつながら、進化しているのではないでしょうか。

おわり。


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