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「チェシャねこ同盟」3

 それから51%ガールは思いも寄らぬ時にトマスの前に現れては、ふしぎなことを話して去っていくようになった。そんなわけでトマスが思春期にさしかかる頃には、彼にとってあの奇妙な少女は何を言っても理解してくれる幼なじみのような存在になっていた。                     彼女がいつやってくるのか予想はできなかったが、トマスが一人でふてくされているときにはよくふらりと現れる。
 「ちょっと寄ってみたわ」
 みたいな調子で。
 たとえば、彼が歴史のテストの問のすべてに、
 『神のみぞ知る』
 という答えを書いたせいで両親が学校に呼び出されたときや、初恋相手のリズが自分ではなくボーイスカウトのグループリーダーを恋人に選んだとき。
 51%ガールは慰めてくれることもあれば、くだらないと一笑することもあった。たとえば歴史の答案の件では心から彼の味方をしてくれたが、初恋相手に関しては、
 「それはもちろん、鳥の声を聞き分けられる方が、スープに入った調味料を当てられるよりずーっとかっこいいわよ」
 と言って、トマスがどんなにライバルが嫌なやつなのか話して聞かせても、彼の失恋は当然であるという姿勢を崩さなかった。
 十五歳になったばかりの彼の元に51%ガールが現れたのは、気むずかしい音楽教師が口笛を吹くほど気持ちよく晴れわたった日曜日。寄宿舎の裏に広がるカエデの林を夢中で歩き回った後だったので、彼は汗をかいていた。紺のベストを脱ぎ、白地にスカイブルーの格子模様が入ったシャツのボタンを三つほど外しながら、トマスはごくごくとペットボトルの水を飲んでいた。
 「徹底的な、美意識とユーモアとユニークであること、の排斥だと思うの」
 突如そんな声が聴こえ、彼は思わず水を吹き出しながら51%ガールの姿をきょろきょろと探した。少女はクスクス笑いながら、すぐそばのカエデの樹から顔をひょいとのぞかせた。
 「おっと、おっと、お取り込み中にごめんなさい」
 「いや、いいけどさ」
 トマスは笑いながら首を横に振る。
 「久しぶり」
 「ええ」
 トマスをまっすぐに見つめながら、51%ガールのコバルトブルーの瞳がゆっくり瞬かれる。彼は彼女の瞳を見ると、いつもこの惑星の真髄のようなものを思い起こす。たとえば彼の脳裏には、春の日の雪解水だとか、途方もない歴史を見事に肌に写し出した岩壁だとか、イルカが歓んでとび跳ねそうな澄みきった海だとか、灰へと果てながらも燃えうねり巡り続ける不死鳥のごとき地底の溶岩が思い浮かぶのだ。もしくは、祈りを模したある種の歌のようなものが。
 51%ガールは、麻でできたグレーのチェックワンピースを着ていた。薄手で飾り気の無いゆったりとした作りのロングワンピースで、袖のところがふわりと膨らんでいる。暑い時期の常で、彼女は裸足だった。
 「徹底的な、美意識とユーモアとユニークであること、の排斥だと思うわ」
 彼女は同じ言葉を繰り返した。
 「そう?」
 彼はシャツについた滴を払いながらそういった後、はっとして顔を上げた。
 「悪いけど、もう一度言ってくれる?」
 彼女は目を見開いて彼の顔を見つめた後、どこか悲しげに眉をゆがめた。
 「人間はね、この世界を過小評価し過ぎよ。自分たち人類のことを過小評価し過ぎなの。
 とにかく徹底して否定的じゃない。自分に対しても、他者に対しても、自分が属している世界に対しても。
 だって、殺し合わなければ生きていけないって思っているんでしょ?それってケーキやワインよりも、ゴミを食べる方が相応しいと思っているってことよ。あまりにも自分をバカにし過ぎだわ」
 51%ガールは顔を伏せ、睫毛を数回瞬かせた。その様子には、まるで生まれたての蝶がおずおずと羽ばたきをはじめるような不器用さがあった。瑞々しくも真摯な空気があたりに満ちる。
 「徹底的な、美意識とユーモアとユニークであること、の排斥だと思う」
 「つまり、戦争が、ってこと?」
 彼女はにらみつけるような表情でトマスを見つめながら頷き、また顔を伏せた。彼はしばらく眉根を寄せて考え込んだ後、躊躇いがちに口を開いた。
 「徹底的な、美意識とユーモアとユニークであること、の排斥。    もし、それが戦争であるというのなら、僕の生まれ育った悪からも喜びからも興味を抱かれない保守的な街でも戦争は相変わらず終わっていなかったことになるし、右向け右主義と長い物に巻かれる主義の後に、豊かな自然を根こそぎ次世代に残し損なったこんなド田舎でも、今もそれは真っ最中だということになるよ」
 「あら、その通りよ」
 「珍しいね」
 トマスは呟くように感想を漏らす。
 「君が落ち込んでいるなんて」
 51%ガールは、イントロがはじまったばかりの音楽、といった雰囲気で伏せていた睫毛の間から瞳をちらちらとのぞかせトマスを見つめる。
 「あんまり自己否定が過ぎると、全滅しちゃっても知らないぞ人類」
 「ああ、違うのか。僕たちへの警告だね」
 「そんなところかしら」
 「徹底的な、美意識とユーモアとユニークであること、の排斥…」
 「そう。平和ボケ、なんて信じられないくらい非論理的な見解だわ。ボケと言いたいなら間違いなく戦争ボケね。どこが?どこが平和なの、マジで」
 「ごめん」
 トマスの口から、ほとんど無意識に微かな謝罪の声が漏れ出た。
 「差別に、偏見に、選民意識。こんな未成熟な精神を抱えている生命体なんて、この辺の銀河じゃ生きた化石ってレベルよ。
 同じ地球所属メンバーとして言わせていただけるならば、人類にはもっと目覚めて欲しいわけ。地球を代表しかねない立場だってことに自覚を持って欲しいのよ。
 まあ、今のところ鯨やイルカとどっこいどっこいだけど。場合によっては、人類が地球代表だと思われることもあるからね?」
 「ああ、そうなの?」
 気まずそうな表情で、トマスが相槌を打つ。
 「そうよ。あなた方に病名を授けてよろしければ、クライシスホリックね。平和で穏やかでみんながニコニコ笑っている社会が目の前にあっても、
 『何かあるぞ』
 『何か起こるぞ』
 って、思うんだわ。この星の上に違いを超えて純粋に歓びを共有しあえる人々が存在するなんて、絶対に認められないんでしょう?」
 「うーん、まあ確かに、そう考える人もいるかな?」
 ふんっと、少女は鼻で笑った。
 「要するにあなたたちって、戦争ボケよ」
 掃いて捨てるように51%ガールは言い切った。
 「どんどん続けて。今日はとことん拝聴させて頂きますから」 
 少女はトマスの言葉に頷くと勢いよく息を吸い込み、口を開いた。けれどそのままふうと息を吐き出して肩をすくめる。
 「今日のわたし、どうかしているかしら?」
 「あ、どうかしてない人はこの世界には存在できないって、君が前に教えてくれたよね」
 51%ガールの表情が緩み、ふふふと微かな笑い声が漏れる。
 「そうね。それってわたしが言いそうなことだわ」
 「僕はこんな風に思うな。まず、この惑星にすむ全地球人で同じマンガを読む。それから、老若男女、赤ん坊も犬猫も良いさ、すべての今を生きていく地球人で集まって、どのシーンが好きかてんでに言い合うんだ。そういうことをするために、みんなバラバラの感性や美意識や価値観を持っているんじゃないかな」
 「そのマンガ大会、良いアイディアね」
 「だろ?でも、何故そういうことをする代わりに人類が殺し合いを続けているかと言えば、どれほど傷ついているか、自分では気づいていないからじゃないかなって思うんだよ」
 「どれほど自分が傷ついているか、気づいていない?」
 怪訝そうな表情で、少女はトマスを見る。
 「そう。たとえば、内面の美しさが尊ばれないことだとか、自分が生きていく世界が未だに戦うことをエネルギーにしないと成り立たない社会であるということだとか、そんな事実に自分がどれくらい傷ついているか、人類のほとんどはまだ気づいていない。そういうことじゃないかな」
 トマスはカエデの樹の根本にあぐらをくんで座りこんだ。
 「ねえ。ところで君って、地球に属しているんだ?」
 「たぶんね。概念としては人間より天使に近いと思うけど」
 「ああ。そうだね」
 深く納得してトマスは頷く。
 「天国っていうのは地球特有のアイディアだから、天使に近いわたしも地球の産物じゃないかしら」
 「そっか。なるほどね」
 「ところで、あなたとおしゃべりしたら、わたしとてもおなか減ったわ」
 「そろそろそう来ると思った」
 「ジャムサンドとか持っていないの?」
 「あー」
 トマスは呻く。
 「ごめん。残念ながら。何か調理場から拝借してくれば良かったな」
 「その通りよ!」
 「うむ」
 トマスはポケットを探ったが、ガム一枚出てこない。
 「いいわ」
 肩をすくめ、51%ガールはくるんとターンした。
 「今日はどうしたってパステル・デ・ナタ気分なの」
 「何それ?」
 「まあ、カスタードのタルトね。ポルトガルのお菓子よ」
 「へえ~。おいしいの?」
 「もちろん。わたしはクリームが濃厚でパリッパリのやつが好き」
 「ふむ。興味津々だな」
 「さよなら。行かなきゃ」
 トマスは笑い出す。
 「ああ、お急ぎだっけ?」
 「そのようね」
 51%ガールは亜麻色の髪を揺らしながら、はねるような足取りで木立の中を去っていった。

                 ~*~

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