本棚を眺めている

十代の頃、古い音楽と映画とTVの再放送にどっぷりと浸かりながらも、結構な数の良い本に出会えて、それが結果としてわたしの人生に少なからず影響を与えていた事を、最近よく感じています。もう老人ですね。老人だという自己申告で年金よこせ。

わたしの本棚には、もう背表紙の文字が判読不能になる程に色あせた文庫本や単行本がぎっしり詰まっている一角があります。それらの本の中には、今では青空文庫に収録されていて、簡単に検索をかけて内容や引用したい箇所を見つけられるものも多いのですが、捨ててしまう事は一度も考えたことがありません。坂口安吾、幸田露伴や太宰、芥川、泉鏡花辺りがこの辺りですね。この辺りの本はもう何年も持っているのに、古本屋さんの店頭のワゴンで捨て値で並んでいると、ついおまけで買ってしまって二、三冊あるものもあったりします。保護猫、保護犬と同じ感覚の「保護本」です。新潮文庫版の稲垣足穂「一千一秒物語」は以前の表紙カバーが好きで、比較的状態の良いのがあったらつい買ってしまうので5冊位あったはずです。一番最初の中学生の時に買った本は、もう本がばらばらに分解してしまいました。

旧いカバーの新潮文庫版「一千一秒物語」。

文庫本を買い直す時に、旧い版のをつい選んでしまう理由には「活字の良さ」もあります。いつ頃からだったのか、わたしの記憶には無いのですが、ある時期から各文庫が「大きめの活字と明るい色の硬めの紙」に代わってしまって、それはそれで利便性としては良い事なのでしょうが、旧版の「薄いクリーム色の紙の上にみっしり黒々とした活字が並んでいて、その世界を手探りで一歩一歩さまよい歩く感覚」が減ったのが、非常に寂しいのです。もちろん、これは老人の我儘です。馴染んだ世界を懐かしんでいるだけの、ただの我儘です。

こういった場所で「十代の頃に出会えて良かった本」をリストアップする事の意義も大事さも理解はしています。でも、わたしはやりたくない。押し付けられて読む本は(本に限らず、音楽や映画もですが)「それなり」にしかならないから。みんな好きな本を勝手に読んで、それぞれの内側にあるそれぞれの宇宙を豊かにすれば良いのです。
ただ、一言だけ言わせてもらえるのなら「若い時、心がまだ柔らかい時」にだけ、触れ合う事が出来る本もある、という事です。そしてそれは、やがて老いた時まで魂に浸み込んで、一生あなたのものになるのです。

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