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【ミニ小説】タメ口を注意しただけなのに…

斉藤恭子は、進藤部長に呼ばれた日のことを鮮明に思い出していた。オフィスの一角、進藤部長のデスクは窓際にあり、外からは穏やかな陽の光が差し込んでいた。部長の眉間には深い皺が寄っており、彼の心配が一目見てわかった。

「斉藤さん、新人の川石くんのことなんだけど、彼の言葉遣いについて少し問題があるようなんだ」と進藤部長は静かに言った。

斉藤はうなずきながら話を聞いた。川石耕希、最近入社したばかりの彼は、仕事に対する意欲は人一倍だが、どうもコミュニケーションに難があることがわかってきた。斉藤は彼の熱意を感じる一方で、その若者言葉や時折混じるタメ口に困惑することがあった。

ある日のこと、オフィスの一角でみんなが苦笑いしながら話しているのを耳にした。「川石くんってちょっとタメ口多いよね…。この前はクライアントに向かってタメ口になった瞬間はさすがに焦ったよねー」と緑川が言うと、周囲の同僚たちも頷いていた。

近くで聞いていた斉藤は少し心が痛んだ。このままではチーム内での関係性も悪くなるかもしれない。そうなる前に川石の態度を改める必要がある、と覚悟を決めた。

翌日、斉藤は川石を呼び出し、オフィスの片隅にある会議室に連れて行った。窓から見える景色は、まるで二人の心の中を映し出すかのように曇っていた。川石は少し緊張した面持ちで、斉藤の前に座った。

「川石くん、調子はどう?」と斉藤はまず穏やかに尋ねた。川石は少し驚いたような顔をしながらも、「まだまだ覚えられないこと多くて大変すけど、楽しいから大丈夫っす」と明るく答えた。

この前向きな彼に今から水を差すと思うと、一瞬気が重くなったが、斎藤は意を決して口を開いた。

「実は…。今日は川石くんの言葉遣いについて話したいことがあったの」と斉藤は本題に入った。

「え?なんすか?」

さっきまでの快活な表情から一転して、怪訝な顔を浮かべる川石をみて、斉藤は内心軽いため息をついた。

「その話し方。敬語がちゃんと使えていないし、たまにタメ口になることもあるでしょ。クライアントにも」と斉藤は続けた。

「はぁ。まぁ」と川石は気のない返事をした。

「いきなりタメ口を使われたら、クライアントもいい気がしないよね?」と斉藤は優しく問いかけた。

「……」

川石は黙り込んで何も答えないので、気まづい空気をかき消すように斉藤は言葉を出し続けた。

「とにかく、クライアントにはタメ口は絶対だめだからね。それに社内でも気をつけてよ。あなたのタメ口が気になるって人結構いるんだから注意してね。周りからの信頼を得ることも仕事をする上ではすごく大事なんだから…。はい!じゃあ、この話はこれで終わり。もういいから仕事に戻って」

わかったのかわからなかったのかはっきりしない様子で、斉藤は首を縦にコクっとして退出した。

それからというもの、川石の言葉遣いはたしかに改善した。タメ口はほとんど使わなくなった一方で、依然として「そうなんすね」といった言葉の端折り方が残っていた。

しかし、問題はそれだけではなかった。
仕事に対するモチベーションが、周りから見ても明らかに下がっているようだった。今までは期日前までにこなしていた仕事も当日に催促してやっと提出するようになったり、クライアントとの会話でも明らかに無理しているような作り笑いをするようになっていた。

そんな川石を見て斉藤は動揺した。

なんでこんなことになるのかしら。タメ口を注意されただけで、そんなに不貞腐れるなんて!!これだから最近の若い人は…
こんなことになるなら注意しなければよかった。

川石を責める気持ちと同時に、自分の言い方が悪かったのか、どう言えば良かったのか、反省する気持ちも斉藤の心の中に共存していた。


以前は元気に仕事をこなしていた川石が、この1週間は明らかに元気をなくしている姿は、周囲から見ても明らかだった。とはいえ、周囲もなんと声をかけていいか分からず、1週間が経過した。そんな中、見るに見かねた橘大輔が川石を飲みに誘ったのだった。

「なぁ、川石。明日仕事終わったら飲みに行かね?華金だからなんか予定ある?」

いきなり声をかけられた川石は、驚きのあまり声につまった。橘は川石の5年先輩で、同じ課ではあるものの別のチームだったから、挨拶や仕事のことを話すくらいで、先輩のプライベートのことなどほとんど知らなかった。なのにいきなり飲みに行こうって…

あまり乗り気ではなかったものの、あまりにも予想外のことに川石は、つい「はい」と答えてしまった。

とはいうものの、先輩から誘われたことで少し気持ちが軽くなっていたのも事実だった。周りから良く思われてないって斉藤課長に言われてから、皆が敵のように感じていた川石にとって、救いの手のようにも感じられた。

二人が向かった店は、会社から歩いて10分程度の住宅街の一角にある静かな場所だった。ここは橘の行きつけらしく、日本酒が美味しい店だと歩きながら教えてくれた。

「おやっさん。いつものちょーだい!」

居酒屋に入ると、橘は親しげに店主に話しかけたあと、川石の方を向いて尋ねた。

「俺は一杯目はビールだけど、川石は何飲む?日本酒もどれもうまいぞ」

どうしよう…

お酒が苦手な川石は戸惑った。なんか無理して飲むテンションじゃないし、かといって先輩のお酒を断って嫌われたらいよいよ居場所がなくなるような気もしたが、考える時間なんてなく「烏龍茶で」と言葉が口から出ていた。

ソフトドリンクを頼むのが意外だったのか、橘は言葉に詰まった様子だった。
反対に、橘の反応を見て川石は自分の言葉に後悔したが、一度出した言葉を飲み込むことなどできるわけなかった。

「そういうところだぞ、お前。先輩にすすめられたら酒は飲んでおけ」

と返ってくると思ったが、予想と反して、橘は穏やかに「わかった」と言って店主に烏龍茶を注文した。

そして、「川石は酒あまり好きじゃないの?」と尋ねた。

橘先輩の言葉にたじろぎながらも、
「そうなんすよ…あまり得意じゃなくて…」と川石は申し訳なさそうに右手で頭を掻きながら答えた。

「ま、ここは料理も抜群だから、なんでも好きなもの食べな。今日は俺の奢りだ」

あれこれと、橘のおすすめ料理を注文した後、休みの日は趣味のフットサルをしているとか、日本酒のこれが好きだとか、いろんな話をしてしばらく経った頃、橘が本題を切り出してきた。

「最近、調子悪そうだけど何かあった?」

川石の背中に一瞬何かが走った。課長とのこと橘さんは知ってるのかな……。頭をぐるぐる回しながらとりあえず簡単に返事した。

「いやぁ、ちょっとテンションがあがらなくて…。なんでっすか?」

「ん〜…オレ遠回しなの苦手だから単刀直入に聞くわ」
一瞬泳いだ黒目がまっすぐ自分の方に向かって止まった。

「この前、斉藤さんに注意されただろ。その……、話し方のこと」

「まぁ…」
嫌な記憶が蘇ってきて、さっきまで楽しかった気分が一気に重くなった。

「で、川石はどう思った?」

「え?」思わず声が出たが、ぐるぐるモヤモヤしていた頭の中をゆっくりと整理するのに必死だった。なかなか言葉が出てこなかったが、その間ずっと橘さんは待ってくれていた。

なぜか橘さんなら聞いてくれそうな気がして、川石は恐る恐る言葉にしていった。

「実は……。自分でもタメ口を使っている自覚はあったんすよ。でもなんかそんなにダメなことってわかんなくて……。たしかにクライアントに対して敬語がうまく使えないことがあって。それは反省しないとって思ったんすけど‥‥‥。んー、でも、自分なりに相手を見て話していたつもりだったから……。だから、いきなりタメ口なんて。さすがのオレでもそれはしないっすよ。でも、斉藤課長に『いきなりクライアントにタメ口使ったらいい気がしない』って言われて……」

橘はうなずきながら、川石の話に耳を傾けた。

「そっか。斉藤課長、たまにそういうことあるもんな……。決めつけでものを言ってくる時が。普段は落ち着いて話聞いてくれてるのに、なんでだろアレ」と橘は言った。

「そうなんすよ。なんか全然言い分聞いてくれる感じじゃなくて」

うんうんと頷く橘に向かって川石は話続けた。

「それに、タメ口がダメなら、課長だって初対面だったオレにタメ口を使ってきたし、それもおかしくないっすか」と川石は続けた。

「あ。すみません。そういう意味じゃないんすよ」苦虫を噛み潰したような顔をした橘を見て、川石は手を横に振りながら謝った。

「まぁ、確かにそうだよな。なんで年上は年下にタメ口使っていいのに、反対はダメなんだろうな」
橘は呟いた。

「オレ、ずっと疑問だったんすよ。人はみな平等って言われてんのに、年齢が下ってだけでタメ口使ったら怒られんの…。学校とかでも初対面は敬語で喋ってたし、なんでこの人たち年齢が年上ってだけでいきなりタメ口つかってくるんだろって」

「お、おう。」と再び橘は言葉につまった。

その様子を見た川石は「すみません」と謝ったものの気にせずに話続けた。

「最近YouTubeでも売れてる人たちは基本敬語だし、時代的には人との距離感で敬語かタメ口を決めるのが正解なんだと思うんですよね。だから、自分の中では、絶対初対面でタメ口は使わないし、相手を見た上でタメ口にしてたつもりだったんすよ」

「そう言われたら、そんな気がしてきたオレも。ちなみに、オレは川石に初めてあった時どっちだった?正直あんまり覚えてないんだよなぁ」
橘はそう言うと、右手でお猪口を持ち、中身を一気に飲み干した。

「えー。オレも覚えてないんすよね。多分覚えてないってことはタメ口だったんじゃないすかね。満田さんは初対面で敬語だったってのは覚えてるんで」

橘は大笑いした。

「たしかに。あいつは誰にでも敬語だよな。てかタメ口しゃべったとこ見たことないし」
一呼吸おいて橘は続けた。
「それにしても、川石っておもしろいな」
「え、なにがっすか?」
「いやぁ、そんな敬語とかタメ口とかそんなことオレ考えたことなかったから。でも、言われてみたらその通りだなと思って。上から目線はよくない。人は見下してはいけない。本来対等なんだって教えられてきたけど、年下にだったら一方的にタメ口でいいってたしかにそうだよなぁって」
「えっ、なんかそんなふうに言ってもらえて嬉しいっす」
川石はぺこっと軽く頭を下げ、
「今日はほんとにありがとうございました」
とちょっぴりかしこまった言葉を発した。
「なにが?」
「ほんとは最初橘さんに誘われた時、ちょっといやだなぁって思ったんすよ」
「やっぱりそうかぁ」
橘は飲もうとしていたハイボールを一瞬止めて言った。
「みんなたまにコソコソしゃべってることってあるじゃないですか。今までは全然気にならなかったんすけど、斉藤課長に注意されてから、みんながオレのこと言ってるのかなって気になり出して。なんというか誰も信じられない気持ちになってて……。そんなときに橘さんに誘われたんです」
橘はお酒にも手をつけず、頷きながら聴き続けた。

「で、また注意されるんかなって思ってたんすけど、こうやって話聞いてくれて、しかも否定せずに受け入れてくれたから……」

「なんだか心が軽くなりました。」
川石は言い終えて一息ついた。

「あぁ、よかった。正直誘うのも勇気がいったんだぞ。でも、誘ってよかったよ。店選びは間違えたけど」
橘は笑いながら続けた。

「うん、川石は間違ってない。だから自分の信じるようにやったら良いと思うよ。斉藤課長はちょっと頭硬いし、たまに決めつける節はあるけど、落ち着いて話せばちゃんと聞いてくれる人だから、もう一度話してみてもいいんじゃないかなぁ。」

川石は少しの沈黙のあと、大きく深呼吸した後、はっきりと答えた。

「ありがとうございます……。こうして話聞いてもらえて整理できたし、ぶつかってみようって気持ちもあるんですが、ちょっと怖いのもあるんです。もし受け入れてもらえなかったら今度こそもう心折れそうで」
「まぁ、そうだよなぁ。うん、無理しなくていいよ。また何か言われたり、モヤモヤすることあったらこうやって話聞くからさ。1人で抱えんなよ」
橘の包み込むような声に川石の目も少し潤っていたようだった。

二人はしばらく軽い話題で盛り上がり店長おすすめ料理を楽しんだ後、解散となった。

翌週の月曜日の午後、川石はチャンスを見計らって課長の机の前に歩み寄った。

「斉藤課長、ちょっとお時間をいただけないでしょうか?」

「うん、いいですよ」
斉藤は一瞬驚いた様子を見せたが、微笑みながら立ち上がり「じゃあ、あそこで話そうか」と第3会議室を指差した。

会議室に入ると斉藤はゆっくりと椅子に腰掛け、川石に話すよう促した。
川石は、いつもより優しげな雰囲気の斉藤に違和感を覚えながらも、意を決して話し始めた。

「先日はご指導いただきありがとうございました。敬語や言葉遣いについて、もっと注意していこうと反省しました。でも、自分の中では相手を見て話していたつもりだったんす。だから、もし不快にさせてしまったことがあれば申し訳ありません。」

斉藤は、内心を打ち明けた川石を黙って見つめていたが、やがて口を開いた。

「私の方こそ、ごめんなさい。川石くんの考えも聞かずに決めつけてしまって」と頭を下げた。

「えっ」驚きのあまり川石は声を漏らした。
その反応を見てか、斉藤課長は説明を追加した。

「実は……、今朝早くに橘くんに話を聞いたんです。川石くんは敬語が使えないんじゃなくてほんとはいろいろ考えながら話してるって。それに、なかなかうまく改められないんですが、タメ口使ってることもね。あっ」

と、ぎこちない敬語を自分自身で笑う斉藤を見て、川石の表情も緩んだ。

その後も、斉藤は川石の話を真剣に聞き、お互い思いの丈をぶつけ合った。そして年齢に関わらずできるだけ敬語を使うことを、課として提案してくれると約束してくれた。

「ごめんーー。次の会議に行かないと。ほんと今日は話ができてよかったです」
斉藤は左手の腕時計に目をやって、慌てたように会議室から出て行った。

川石は感謝の気持ちでいっぱいになり、深く頭を下げた。

そうしてしばらくすると、課としてルールができた。
年齢や立場、経験の上下に関わらず原則敬語を使うこと。ただし、お互いの関係性によってタメ口になったりすることまでは制限しない。
また、関わるすべての人に対して尊重する気を持って接することが大切だということも共有された。

それからというもの、川石の表情は以前のように明るく自信に満ち溢れていった。またオフィスの空気も和らぎ、チーム全体が一つにまとまっていく感覚だった。

そして斉藤もまた、自分の言葉が川石にどのような影響を与えるかを反省し、指導するときも必ず相手の考えをしっかりと受け止めることを心に誓った。


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