見出し画像

勉強を始めるタイミングって人によって10年以上ちがうかもです。

僕は自他共に認める変態ですし、馬鹿さ加減も

突き抜けてしまって、みな生暖かくも優しい目で

接してくれている。


自分では気付かなかったけど、やっぱり人より

劣ってる部分があることは小さな頃から気が

ついてはいたが、良い部分とバランスがとれて

いたのかもしれない。


小学校に入学して最初の集団下校でまったく

関係のない班の列に並んで我が家とは逆方向の

一番遠い所までついて行った先で先生までドロン

したものだから一人で泣いている所を近所の

優しいお母さんに保護されたことを今でも鮮明に

覚えている。


小学校1年生のときに大きな台風が来たとき、

窓ガラスが大きな音を立てながら揺れていて

その時の担任は絶対に窓を見ないように授業に

集中しろ!と今ではありえないが鬼の様な形相で

怒鳴っていた。女の先生だがすぐにキレて手を

あげることをなんとも思はない人だった。


そのうち雨風が強くなり窓から大量の飛沫が

僕に降りかかるので窓の隙間にタオルを突っ込んで

しまった。そう椅子から立って数歩歩いたのだが

その先生はすっ飛んでくるなり往復ビンタを見舞い


「テメー!窓見るなっつったろーが!

なに歩いてんだこのクソガキ!

おー!分かったよ勉強したくねーんだな?

んじゃさせてやんねーからな!

二度とさせねーからな!

今日から机の上に教科書出すなよ!

出したらブン殴るからな」


コレが現在なら大変な問題になるが、当時は

授業の邪魔してスミマセンと親の方が謝る様な

じだいだった。


僕は先生のあまりの剣幕に身の危険を感じて

その時一緒に叱られた友達と教科書を全部

ロッカーに仕舞わされた。


んで何をするかとゆうとやる事がないから

二人で一日中粘土で怪獣やらビー玉を転がす

ボードゲームなどを作って遊んでいた。


コレがひと月以上続いたものだから、勉強に

着いてけないどころか教科書を出せる頃には

全てがチンプンカンプンの有様です。


担任にイジメられてるなんて親にも言えなかった


しかし我が家には優秀な家庭教師がいたのだ。

親父である。地震、雷、火事、親父と言われた

頃の怖いもの代表である。


あるとき九九が出来ない事を知られると、九九の

表を作られ全部を通して言えるようになるまで

鉄拳制裁にみまわれた。


この時ばかりは親父がホントに怖くて泣き叫び

ながら寺の小僧が経を読むように覚えさせられた。


父は普段は優しく野良猫を飼い猫にしてしまう

様な情にアツい人だが、僕が一度道を間違えると

自分の手が腫れるほど殴って下さった。笑


ある時は中古のテレビを持ってきて、コレを好きに

バラしていいぞと、どこかの秀才育成の話にでも

感化されたような事を仰るが、こちとらまだ

小坊主である。


テレビの外側を外すと真空管が出てきたので

ドライバーで1ずつ割っていたら、部屋から

親父が飛んできてまたもやゲンコツの嵐なのだ。


親父は飛行機のラジコンをやっていたので、よく

河川敷に連れられて日がな飛んでいく機体を目で

追っていた。今でもヒマシ油の香りを嗅ぐと

親父がヘマして川に落した飛行機のことを

思いおこさせるのです。


親父は友人と近所にサッカー場くらいの土地を

借りて畑を耕し多くの野菜なども収穫できた。


耕運機まで買って本格的なのだ。この頃に畑の

作り方などいつのまにか吸収できたのだ。


夏には大量のトウモロコシが実り学校帰りに

もいだモノをオヤツにした。


コンロで焼きながら醤油を垂らすと思わず笑って

しまうほど美味かった。


ある時大量に実った野菜を夜中に盗られてしまう

のではないかと心配したが、親父は豪快にあんだけ

一杯あるんだ、好きなだけ持っていかしたらイー

じゃねーか?!ケチケチすんなや、な〜?!

と笑っていたのがなんとも豪気でありました。


いっぱいあるから欲しい奴にも分けてやれよ

なんて見返りのない素直な気持ちを親父のこんな

ところから学んだのかもしれない。


ナスやらキュウリやらスイカやトマトなど

夏野菜は全て網羅していたので、植物の成長

なども日々観察する事もできました。


農薬などの調合も研究していたようです。

やはり虫のついた野菜のほうが人間にとっても

美味しいのだと親父は笑っていた。


僕の家はお膳で食事をするので、高校に入るまで

正座して食べる決まりがあったので、なにか学校

なんかで正座する機会があった時は、一番長く

座っていられたし、足も痺れなかったのは母の

お陰だと、その時のばかりは鼻が高かった。


親父は晩飯時にビールを嗜んだので、子供たちも

一口だけと飲ませてくれたものです。

なのでビールの美味しさは小さなころに知って

しまい、僕は今だに最初はビールからなのだ。


親父の小さな頃はまだ戦争をしていたので、

たまに自衛隊の話をしてくれた。


どんな暗闇でも小銃を分解して組み立てられる

のだという。もしも、あ?なんて言ってバネが

ピョーンなんて飛んでいったら、もうその兵隊

さんは勝ち目なくお陀仏なんですよ?

なんて笑い話にしながら、本物の訓練を受けた

仕事の厳しさを優しく説いてくれていたのだろう。


母はとても優しい人で、手を挙げることは

なかった。殴って躾けるなんて動物の飼育だと

暴力を好まなかった。


その代わりにうんと僕を褒めて育ててくれた。

おじいちゃんも言ってたよ、君はできる子だって

ことある毎に、大丈夫!君になら出来るよ!と

勉強の出来ない僕をいつも励ましてくれた。


勉強はダメだけどマラソンは学校1速かったし、

少年野球に入った時は、僕だけ1学年上の人達に

混ざって練習させられたので、バランスはとられ

ていたのかもしれません。


僕のいた野球チームは先代が横浜市で優勝する

ほどの強豪だったのです。五年で副主将で捕手

を任されたが、野球のルールをよく知らないで

いたものだから、6年では平に降格してしまった。

ルールを熟知しないキャッチャーも珍しいと

幼いながらも反省しましたね。


僕は親父の影響で空を飛ぶものが小さな頃から

好きでしてので、二宮さんのよく飛ぶ紙飛行機を

作っては日が暮れるまでとばして、ある時は

飛ばした紙飛行機が遠くの空高くまで上がり

見えなくなってしまう事もあり、この手から

離れた紙飛行機が空の彼方に消えるのをなんとも

不思議な気持ちで見送ってました。

大事な飛行機を失くしたのに何故か気分が

晴れてスッキリとして帰ったのを覚えています。


本当に何かに真剣に打ち込むようになるのは、

もう少し後になるのですが、好奇心があれば

知らないうちに熱中するようになるのが僕で、

好きなことにいつも取り組めている僕は本当に

幸せなんだといつも周りに感謝しています。


いい事も悪いことも、まわり回って僕が出来

上がっていくのでしょう。これからも。


なので日々感謝です。😄


ここまでお付き合い下さいまして

誠にありがとうございました。


では、またね🖐







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?