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こんなこと書きながら生きてく

桜について 俗だ 美しいがそれほど好きでは
ないだ 花見というあの宴会は一体何なのだろう
とか 色々とくさす割に 下階専用庭の桜がす
っかり散った後 新葉が付きだしてきたり めず
らしく強かった雨で花芯がマッチのような半端な
実に膨らむ部分がすっかり舗道に落ちてしまった
り そのような光景を興味深く見ていて この分
だと五月ごろには隣家からの目隠しとなって昨年
以上の樹木のなかの家感覚が楽しめるかもし
れないと期待も膨らむ 結局一度もベランダに
出していない折り畳みの安かったロッキングチェ
アを今年は休みの間に出して と言っても私は
日々休みなのだけれど 自宅観光という事で
引き続き引きこもりを決め込むだろう そのころ
までにはエアコンをどうにかしないといけないと
思っている

と言った私事を誰が読むのかという懸念はできる
限り抱かないようにしているけれど 内容的には
このような書き物を三年も続けると 書いておき
たい記憶 それはあくまで自分のためなのだろう
それらのものはあらかた書いて やはり書いて
て自らが乗ってくるのは実際の経験や記憶 そ
れから自分がひっかかった気になる人からの
話 伝聞 そういった類のもので 書くことがなく
なってからが本番だという古井由吉の言葉を
よすがに 無理にひねっているここの所の書き物
は 書くにつれて焦燥感が生まれ それを打ち消
すために何かを内面から絞り出し それで書いて
はわずかな安堵とと言っても次から泡立つ焦燥
とそれらの堂々巡りで あんた何やっての と
訊ねられれば ドウドウメグリ とか イタチゴッコ
とか 投げつけるように答えるしかなく

何もしていないように見える生活をしている人間
に あんた何してんの というのは思えば軽い
言葉だが結構尖った言葉の暴力で と言って
自分で望んでそうしているのだから傷つくことな
ど一ミリも義理ではない 本を読んで音楽をかけて
気が向けばドラミングの練習をしたり 竿師の
真似事をしてみたり 高等とはいいがたいが
遊民の生活 人眼にはいい気なものだ とある
いは後ろ指をさされるような 勤め人だった頃
には恋焦がれた現状のこの生活としても 深い
倦怠感 片時も消えない焦燥感 それから自ら
の無用感が時折押し寄せてきたりする それら
まとめて屈託というのだろう そうしたふざけて
見えるような屈託は気を覆って晴れることない

こういった倦怠 曇天のような感情 それがなん
となく現在の基調感情として根深いのは本来
そういったものから無縁なはずの若い世代なの
かもしれないと考えると 一応の事がほぼ出来
てしまうスマホとそれをとば口としたネットの世界
は使いようによっては地獄製造装置だなどと
ありふれた愚鈍な物言いしか思い浮かばない
自らの思考にも大抵あきれるばかりでそのような
言説もスマホ 私は今持っていないのでPCと
なるも その中に転がっている一つの誰かの
意見をなぞっているに過ぎない そういった袋
小路感 目新しさの無い思考をどう打開していく
のか 思考が狭められ 広がったり 俯瞰的に
なったり といった方向に進まないのがこれら
の屈託の元だろうと月並みながら分析された

北方健三ならばソー〇へ行け の一言で済ま
される程度の屈託ではあるが それが当人
には意外に深く ならば北方のアドバイス通り
にしてみれば案外すっと屈託も何も晴れ晴れと
すっきりするのかもしれないが 鼬ごっこの円形
は意外に強固で視野も狭い それでも何だで
ぼんやりただ生きていくわけだけれど

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