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映画のエンドロールを、ぼくは最後までみたことがなかった

映画のエンドロールを、ぼくは最後までみたことがない。

スタッフの名前に興味はないし、どこが制作に協力しているとか、だれが演出をかんがえたとか、こまかな作り手の背景を知ったところで「ふーん」と鼻をならすだけ。われながら、作品に対する敬意が薄いな、とは思う。けれども、無理やりエンドロールに夢中になってみても、その日の夕飯のこととか、終わっていない仕事のこととかを、頭の片隅で考えてしまう。

だからぼくは、映画のエンドロールを最後までみたことがなかった。

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『横道世之介』という映画を見た。どこにでもいるひとりの大学生のお話。

"どこにでもいるようなやつ"――だからこそ、誰が見ても「いたいた、こんなやつ」と、記憶の片隅にいる"あのころ、自分のそばにいたあいつ"が鮮明に浮かびあがる。

物語は、たっぷり時間をかけて、おいしいコース料理を食べているような感覚ですすんでいく。 食べおわったあとには、心地の良い満腹感と、もっと味わいたいという哀しみ、よくわからない多幸感が、こころを包みこむ。

おかしくて、哀しくて、愛おしくてどうしようもなくなるような映画だった。

どこまでも伸びていくような余韻と残響は、エンドロールに流れる『今を生きて』(ASIAN KUNG-FU GENERATION)という曲によって増幅する。そして、エンドロールがおわってから30分ほどボーっとしたあとに、泣いて、昔の友達に会いたくなって、じぶんでもよくわからない感情がふつふつと沸きあがる。

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あわててインターネットでこの作品を検索してみると、あらゆる著名人たちから絶大な支持をえている作品であるということがわかった。「誰もしらないような名作を発見したぞ!」と興奮していた自分が恥ずかしい。

愛あふれる感想の中にこんな一文を見つけた。

「今、いわゆる青春と言われる時間を過ごしている自分も、今の時代を知らないこれからの人達に、あの時代っていいよなぁと思ってもらえるように、素直に、おもいっきり、青春しようと思った。」

これは俳優・白石隼人さんが『横道世之介』を見ての感想文。

禅では、「いま・ここ・じぶん」と言って、今、ここにいる、自分に意識をおくことが大切といわれている(ここでは詳しい説明を省く)。ぼくらが過去にも、未来にもとらわれず、今を生きることが大切だとされるのは、もしかしたら、今ぼくらが生きている時代が、いつかの誰かにとって愛おしい存在であってほしいからなのかもしれない。

エンドロールをたのしめるほど、余裕のあるにんげんになれたら良いな。


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