地下鉄のザジ(レーモン・クノー)

 以前、放送されていた「クレラップ」のC Mで街を駆け回るオカッパ頭の女の子の元ネタがこの作品のザジ。

 ルイ・マル監督が1960年に見事に映画化したが、ザジ含め登場人物の如何わしさやパリという都市、パリジャンといわれる人々への皮肉の強烈さは小説の方に軍配が上がるだろう。

 1950年代、田舎からパリにやって来た少女ザジは口癖の「ケツくらえ」を連発して、大人達を閉口させるが、その大人達は腹にイチモツ抱えたインチキギリギリ(もしくわアウト)の人物達である。作品中では登場人物達がザジのいる前に限らず(またはザジ自身も)性的に際どい台詞を吐くし、悪どい企てをする。そもそも、パリの名所がパンテオンだろうが、リヨン駅だろうが、陸軍記念館であろうがどうでもいい連中なのだ。そんな連中に一発食らわすための、唯一確かな言葉がザジの「ケツくらえ」なのだ。

 パリ滞在中、ザジを預かる伯父のガブリエルは夜警の仕事をしていると嘘をつき、とあるバーでダンサーをやっている男であり、人を魅きつける力を存分に発揮しながら、人を騙すことも厭わない。「ならば、この男、悪人か?」と聞かれたら、愛妻家ではあるし、人望家でもあるし、彼のダンスを見たら人は感動せずにはいられないという大変な芸術家なのだ。(ついでに彼の妻に関しては最後にある秘密が明かされる)

 そして、この作品においていかがわしさを代表する人物のもう一人が、トルースカイヨンである。ザジに痴漢と言われ、ガブリエルに米軍の払い下げの品物を売る行商人と名乗り、パリ中の人間から疎まれる警官(ポリ)の格好をして現れる。ガブリエルが自身の人間的魅力で人を魅きつけるとしたら、トルースカイヨンは何者かになる(コスプレ)によって人の中に入っていくタイプなのだ。

 そんなパリで、ザジを惹きつけてやまない対象となるのが地下鉄に乗ることである。初めての体験を目前にし、期待を胸にやって来るも、ストライキのため運休。ザジは行き所のなくなった好奇心をやけっぱちの如く、パリを引っ掻き回すことで発散させる。そんなザジに思惑から、あるいは優しさから声をかけようとする人々の上っ面までザジは引き剥がしにかかる。その最大の被害者が先ほどのトルースカイヨンである。

 パリ中を舞台にしたザジとの追いかけっこはトルースカイヨンの勝利で終わるが、最終的にはガブリエルに一発お見舞いされてしまい、ザジにまんまとお目当ての代物を奪われる。

 そして、第二の被害者が善良な、しかし惚れっぽい未亡人ムアックだろう。言葉遣いも態度も悪いザジを嗜め、諭そうとするが、男好きという弱点をザジに見抜かれ、からかいの対象になってしまう。それもそのはずで彼女が惚れるのはよりによってトルースカイヨンなのだ。

 いかがしいが愛すべき人物達で満ち溢れている。そんな物語なのだ。

 また、この物語にはフランス人のアメリカ文化への憧れというものが色濃く出ている。登場人物たちの喧嘩の節々に「このアメリカかぶれ」などのやりとりが見られるし、ザジとトルースカイヨンとの鬼ごっこの原因は、アメリカを代表する衣服である「ジーパン」である。嬉しそうにジーパンを履くザジを見て、ガブリエル夫人のマルスリーヌは「時代は変わったのね」と呟く。

 口の悪い生意気な少女ザジは、女性がジーパンを履く時代の象徴でもあり、しかも、それは前時代的な格好(トルースカイヨンの当時の格好)をした男性から奪ったものであるのだ。

 都会は少女にとって危険な場所だが、少女もまた都会にとって危険な存在なのだ。

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