刀鬼、両断仕る 第二話【真波】上
◇【前回】◇
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
薄暗い山道を、少年は走る。
齢は十。柔らかみのある頬を泥と汗で汚しつつ、懸命に走る。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
時折後ろを振り返りつつ、息を切らせながらただ、走る。
仲間はいない。無論、庇護する親もない。
少年は独りだった。ただ自分の足だけで、ひたすらに逃げていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
体力は、思いの外長く続いた。こうも走れるものかと、少年自身意外に思うほどに。
理由は、彼が懐に忍ばせたある物にある。
彼が走るのもまた、その物が原因である。
「……はぁ、はぁ、はぁっ……」
走る。走る。振り返る。
追手の影は無い。足音も聞こえない。
逃げ切れたのだろうか、と少年は安堵する。
ほんの少し歩調を緩め、荒くなった息を整え、前へと向き直る。
「よォ、もういいのか?」
「っ……!?」
そこに、いた。
自分を追っていた筈の男が、目の前に。
「いや、スゲェよお前。よくこんな走れたな。マジで逃げられるかと思ったわ」
横に広く開いた口を歪ませて、男が笑う。
唇から覗く獣じみた八重歯に、少年は嫌な連想をした。
(……食い殺される)
無論、妄想である。実際の所、男に人食いの趣味は無い。
代わりに男は、刀に手を伸ばした。かさりと妙な音がして、刃が鞘から引き抜かれる。
「じゃ、鬼ごっこは終いだ。……あァ、ごっこじゃねぇのか。刀鬼だもんなァ、オレ」
くつくつと男が笑う。木漏れ日が男の刀に差すが、乳白色の刀身は光を反射しなかった。
「じゃ、出すモン出してもら……おぁッ!?」
男が声を上げ、飛びのいた。
「あー……吃驚した。何だそれ、やる気か?」
少年が、懐刀を抜いて斬りかかったからである。
「近づくな。近づけば……斬る!」
「んーまぁ、そうか。そうだよなァ……」
ぼりぼりと頭を掻いて、男は困惑する。
こうなる事を、想定していないわけでは無かった。
「いーんだけどさ……それだとお前、死ぬぞ?」
「っ、お、お前達のような賊に鞘を渡すくらいなら!」
「いやぁー、死んだら死んだで持ってくし……意味ねぇぞ、それ」
本心からの忠告であった。
少年がいくら命を懸けたとして、男を倒す事は不可能である。
だから、そもそも命を懸ける意味が無い。
「諦めてさァ、鞘渡してくれよ。そうしたら見逃してやれるんだけど」
「ふざけるな! これは私の一族が、代々ずっと……」
「守って、守れなかった、片割れな」
「っ……!」
はぁ、と男はため息を吐く。
問答や説得は得意ではなかった。まして相手が、大名家の子息とくれば。
「ま、気が変わったら言ってくれや」
あっさりと諦めて。男はぐっと姿勢を低くした。
少年の目線よりもなお低く、両手が地面に着くかという高さから。
――ひゅんっ。
音がして、刹那、少年の懐刀が弾かれた。
「えっ……」
少年の目には、何も見えていない。
刀の移動は勿論の事、男が自らの目と鼻の先まで近づいた、その動きさえ。
そしてすぐに、また見えなくなる。顔面を殴られたのだ。
視界が光ったかのように揺れ、少年は尻餅を着かされる。
ぼたぼたと鼻血が垂れ、泥で汚れた着物を更に汚した。
痛みで涙の浮かぶ目で、けれど少年は必死に敵を睨みつける。
「おー、良い目。すっげ、ただのガキだと思ったのに」
「……殺すなら、さっさと殺せ!」
声が震えた。手も足もだ。
少年はそれを誤魔化すように強く拳を握り、必死に声を張り上げる。
「父上から託されたものを、易々と渡してなるものか!」
「易々なんだよなァ……。……っつーか、アレだ」
うんうんと、何に納得したのか男は何度か頷いてみせる。
それから少年の着物を掴み乱暴に持ち上げると、八重歯を見せて笑い、言う。
「なァ、お前も天刃に入れよ」
「なっ……!?」
「いや、真面目な話な? 天宿サマも受け入れると思うんだわ、お前が鞘渡してくれたらさ。そりゃあ超越刀はすぐには無理でもよォ……」
「わ、わ、私に、国を襲った賊の、仲間になれ、だと……!」
少年は顔を赤くしてじたばたと暴れる。
それでも、宙に浮かされた身では何の抵抗も出来なかった。
「良いと思うけどなァ。天宿サマ、復讐とか歓迎する方だし。お前が強い刀鬼になれるなら、それで良いみたいな?」
オレには分かんねぇけど、と男は言う。
男は、己の主が考えている事を本当の意味では理解していなかった。
それでも、ここで無意味に死ぬよりはずっと良い、という事だけは分かる。
「どうよ、これ。鞘持って一緒に城帰ろうぜェ~?」
「お、断り、だっ!」
ぺっ! 少年は男の顔に唾を吐く。
男はそれを軽く躱しながら、「そっかァ」と言って少年を投げ捨てた。
「ぐぅっ!」
「分かんねぇなァ、お前のそーゆーの。……まぁ、いっか」
オレはどっちでも良いんだ、と呟いて、男は再度姿勢を低くする。
ふぅぅと息を吐く男の姿に、少年は再び想起した。……食われる。今度こそ。
「死ぬ前に教えといてやる。オレァ荒刈。刀銘は『刻角』」
天刃衆の刀鬼だ……と付け加え、そりゃ知ってたかと一人で笑う。
その、あまりにも自然な態度に……少年は恐怖した。
小さく呻き、涙が零れる。強がりを言っても、死ぬのはやはり嫌なのだ。
(父上……!!)
そして最後に想起するのは、自分を逃がした父の顔。
けれどそれも、荒刈が地を蹴った瞬間に掻き消える。
恐れで胃の酸がせり上がり、目前さえもまともに見れない。
情けなさを感じる余裕すら消えて………
………それから、十秒。
「……?」
まだ命のある事に戸惑って、ようやく少年は顔を上げた。
すると目の前には、黒い壁がせり上がっている。否、壁ではない。鉄の塊じみたそれは……恐らくは、剣。
「刀鬼、と言ったな」
声がして、見上げる。
地に突き刺された剣の横には、がっしりとした長身の男が一人、立っていた。
「言った。言ったぜオレは荒刈だ。……で?」
お前は何だ、と荒刈は苛立ちを露わに尋ねる。
剣を引き抜きながら、男は至極面倒臭そうに、ただ一言、答えた。
「……『無粋』」
*
僅かに過去の話をしよう。
北へ向け歩いていた無粋は、山道の途中、微かな声を耳にした。
恐らくは、少年の叫び声。それも尋常な様子ではない。
決して人助けを信条としているわけではないものの、流石にそれを無視出来る無粋でもない。声の方角へ足を進めた所、少年が男に襲われている所に出くわし――
「死ぬ前に教えといてやる。オレァ荒刈。刀銘は『刻角』」
――天刃衆の刀鬼だ。
それを聞いた途端、戦う事を決定した。
つまり正確には、少年を助けたわけでは、ない。
だが動機はこの際、誰にとってもどうでも良かった。
*
「なんだか知らねぇが、邪魔する気か?」
「お前が刀鬼なら、討つ」
「はァー……めんどいの来たな……」
荒刈は嘆息する。簡単な、今すぐにでも終わる仕事だったのに。
意味の分からない男が、突然に乱入してきた。しかも無粋と名乗るその男は……
(明らかに、強ェし)
荒刈の動物的直感が告げる。コイツは気を抜いてはならない相手だ。
そして自然、荒刈の視線は彼が手にした得物へ向かう。
大太刀じみた長さに幅広の刀身。けれど刃は研がれていない。
明らかな鈍。ただの鉄の塊、と言っても良いかもしれない。
その異様な風体が、殊更に荒刈の注意を煽る。この男は……
「もしかして、刀鬼だったりする?」
「ふざけるなッ!」
問うた瞬間、無粋は激高した。
急変した態度に戸惑う間もなく、無粋はダンッと地を蹴り、鉄塊を振るう。
「うぉ、何なんだよお前ッ!」
荒刈の対応もまた素早かった。
体勢を無粋の膝より低く構え、『刻角』を滑らせるようにして薙ぎ払いを流す。
更に剣の重心が自身の上を通り過ぎた瞬間、荒刈はそれを押し出すように『刻角』を弾き、無粋の体勢を崩さんと狙う。……が。
(重ェ……!)
荒刈の策は、不発に終わる。
一つは鉄塊の重量が荒刈の想定より数段重かった事。
もう一つは、無粋の筋肉が荒刈の力に勝っていた事。
理由を脳裏に浮かべつつ、荒刈は無粋の側面へと回りその姿を見上げる。
(筋骨隆々って程じゃァねぇが、まぁ……)
無粋の身長は、高い。比較的矮躯と言える荒刈と比べると、頭一つ分は差があった。
その上、着物から垣間見える腕や足の肉は程よく鍛え上げられている。
あんな鉄の塊を当然のように振るう男だ。力では勝てまいと、荒刈は攻め方を思案する。
同時に、無粋の側はといえば、荒刈の刀の感触に違和感を覚えていた。
(……軽い)
刀身の上を滑らせただけでも、掌に伝わる感覚で理解できる。
荒刈の持つ『刻角』という刀は、並みの刀と比べ、異様に重量が軽かった。
加えて荒刈自身の上背と姿勢の低さ。するりと攻撃を避け側面に回る姿に、無粋は眉根を寄せる。
素早い動きを得意とする刀鬼なのだろう。
反応も悪くなく、飄々としているが抜け目ない。
力で強引に突破出来る相手では、無い。
互いに力量を見定め、第二撃。
今度は低く振られた荒刈の『刻角』を、無粋が跳んで躱した。
「ッハ! 甘ェ!」
けれど荒刈は、ニィと笑うと手首を捻り、膝を伸ばして斬り上げる。
およそ剣の重量を感じさせない、素早い連撃である。顎を引きこれを避ける無粋だが、目の下に切っ先を受け、血が飛び散った。
「んで、終わりィ! ――ィ!?」
手首を捻り、三連撃。そこには無粋の脛が間に合った。
斬撃より早く、無粋の硬い脚が荒刈の懐に入り、小柄な荒刈はそのまま吹き飛ばされる。
「っ、ぐ……ありゃァ……」
木に背を叩きつけられ、咳き込みつつも荒刈は意外そうな声を上げる。
「終わるのは、お前だ」
無粋はすかさず鉄塊を構え、追撃の姿勢を見せるも……
「どーかなァ?」
足が、止まる。
ちらと足元を見ると、蹴りに使った右足のふくらはぎに、細く短い刀傷が生じていた。
「っ……」
踏み込みと共にだらりと血が流れ、無粋の体がよろける。
蹴られ、飛ばされる瞬間、『刻角』の切っ先は無粋の脚を捉えていたのだ。
「分かったろ? お前の鈍とオレの『刻角』、相性悪いぜ?」
言いながら、荒刈は再度地を舐めるような低い姿勢を取る。
「『刻角』の刃は獣の骨だ。人は獣に勝てねェよ」
刀鬼なら別だけどな……と、荒刈は歯を見せて笑う。
成程、と無粋は合点が行く。乳白色の刃が異様に軽かったのは、鉄でなく獣骨を素材としているから。であるなら、無粋にとって答えは簡単であった。
「骨なら、楽に砕ける」
「……あァ?」
「お前の『刻角』とやらを砕く。お前は刀鬼でなくなり、その上で殺される」
「……あァー……」
荒刈が頭を掻く。挑発に返って来たのは、無粋の剥き出しの憎悪であった。
無論、荒刈も恨まれる事には慣れている。刀鬼であれば至極当然に。
それでも、無粋の言い様には、荒刈の心も大きくざわついた。
「……まぁ、アレだな」
この男は、今なんと言った?『刻角』を砕く? 刀鬼でなくなる?
つまりコイツは、オレから『刻角』を。今のオレの全てを奪おうとしている。
「決めたわ。テメェは刻んで犬に喰わせる」
瞬間、ようやく荒刈は無粋の存在を認識し直す。
よく分からねぇ面倒くさい相手、じゃない。
コイツは、オレの、敵だ。
【続く】
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