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失敗作のカタルシス

私には重い過去がある。

それは誰かに理解してほしいようで、誰にも理解されたくない複雑なものだ。

ただ1つ言うなら、他の人には味わうことのできないような、私だけの特別な過去である。



冒頭から面倒くさいことを話したが、そんな私の人生は、格別不幸かと聞かれればそうでもないと思っている。


それなりに話し相手もいたし、それなりに色んな人に愛されて育ってきた。

なんなら今までの人生、はちゃめちゃに甘やかされながらここまで来た。

この前も高校の部活のメンバーで、浪人していた友達の合格祝いで焼肉に行ったのだが、その時の自分は一切肉を焼かず、ただひたすらに小皿の上に置かれる肉を平らげていただけだった。

「いや、さすがに自分でやるよ??」

と言ったが、

「いやいや、ましこにはたくさん食べてもらいたいのよ」

なんて言われて、また肉が運ばれてきた。

さらにそれから店を出て、友達がお金をおろすためにコンビニに行った時に、

「何か飲みたいのある?」

と聞かれたのですかさず、

「カルピスで!ありがと!」

と返した。

そしてコンビニから出てきた友達は、他のみんなにも水を買ってくれていた。

でも、私の手元に来たのはカルピスで、どうやら私だけに何が飲みたいかわざわざ聞いてくれたらしい。

死ぬほど甘やかされていた。

完全に末っ子丸出しなひとときだった。



少し時は遡り、今でも覚えている会話がある。

高校生のとき、クラスの誰が可愛くて、誰がかっこいいかなんて仲のいい友達どうしでわいわい話したことがある。

そこで、
「○○(クラスメイト)のことどう思う?」と聞かれたある友人が、

「あー、ありゃあ失敗作だよ!」

と、最高の笑顔で言った。

そんなエッジの効いた毒のパンチの感触が、未だに私の記憶に残っている。


これを言ったら少し性格が歪んでいるように捉えられるかも知れないが、私は自分の失敗エピソードを楽しそうに話す人が好きだ。

最近仲良くなった人に、ほぼ毎日のようにやらかす人がいる。

その人の話はいつもぶっ飛んでいて、予想もつかない上に、これでもかと言うくらい次から次へと話題が湧いてくる。

でも1番凄いのは、その失敗の量や質でもなくて、それを楽しそうに話してくれることだと私は思っている。

勿論私もその話の内容が面白くてずっと笑いっぱなしなのだが、そもそもそんなぶっ飛んでる失敗を、まるで良いことがあったかのように楽しそうに話してくれるこの事実が、とても面白いのである。

失敗というのは、その次にはもう笑える思い出へと形を変えることができる流動的なものだということを、改めて実感できた。



思い返せば、いつだって周りには素敵な人ばかりだ。

そんな私も、時には失敗作だと感じることがある。

そもそも私は生まれつき身体が弱く、持病とケンカしながら生きている。

また、人混みが普通の人より極端に苦手で、ヘッドホンを付けていないと1人では都会もロクに歩けない。

そのせいで、学校にもうまく通えなかった。

そのせいで、何回も辛い思いをしてきた。



確かに、私には重い過去があった。

でも、それも今を見てみれば分かる。

私はこんなにも素敵な人たちに囲まれている。

今はこんなにも楽しく人生を謳歌している。

もちろんしんどいと思うことは今でもある。

ただ、しんどいと思った時、手を差し伸べてくれる友達が、いつでもそばにいる。


人生はプラマイゼロで、ときどきプラスになれば悦ぶくらいが丁度いい。

きっとみんな、失敗作なんだ。

失敗作でも、それがいっぱい集まれば、成功作に立ち向かえる。


大丈夫、人生はきっと、恵まれている。


あなたのサポートのおかげで人生頑張れますっ 宜しく頼んますっ