マンガ弾圧の歴史!鉄腕アトムは燃やされたのか?「悪書追放と焚書」
今回は「悪書追放運動」「焚書活動」についてお届けします。
かつて、マンガは子どもに悪影響を与えるものとされ、
排斥されようとした時代がありました
害悪のレッテルを貼られ、マンガを燃やされ
社会問題にまで発展したマンガバッシングの親玉として
矢面に立たされたのが手塚治虫でした
今回はそんなマンガ批判の時代、
マンガ弾圧の歴史を振り返ってみます
それでは
今回「悪書追放」「焚書活動」についてお話しますが
まず気を付けなければならないのが
これらについては明確な証拠がないということです。
あるにはあるんですが一次資料がほぼない
よって裏付けする資料が乏しく当人の証言に頼るしかないんですね。
なのでネット界隈では「あぁだこうだ」言われておりますが
ここでは手塚治虫オフィシャルサイトと手塚先生本人の証言を元に
記事をまとめておりますのでご了承くださいませ。
ですので今のうちに補足しておきますが
「いいかげんなこと言うな」とか「事実無根」なんて反論に対しては
まったく否定もしませんし「そうかも知れませんね」という回答になりますのでどうかご了承の上、ご覧になってください。
そしてさらに補足ですが
手塚治虫側のすべてが正しいとは思っておりません。
たとえば「鉄腕アトムだけが燃やされた」と言ってる節もあるのですが
「鉄腕アトムだけ」というのはさすがに大袈裟に盛っている(笑)
そして燃やされたと思われる日時と単行本が発売された日時が
一致しない作品があるなど、不明確な点があることは事実ですので
すべてが真実であるとは思っておりません。
あくまでも、マンガ文化の歴史的背景をたどるという側面から
今回の記事をお楽しみいただければと思います。
それではいってみましょう。
まず「悪書追放」とは
これは書籍や文書を「悪書」と定義して排除しようとする運動のことです。
1955年(昭和30年) にその対象がマンガとなり
子供に悪影響を与えるとか、教育に悪いとして不買運動や
学校の校庭で大規模に燃やされるという「焚書運動」にまで発展したこともあったそうです。
吉本浩二著作・ブラックジャック創作秘話より
元々マンガを敵視する傾向は戦前から強くありました。
「漫画は子供の思考力を阻害する」なんてこと言われて
殺人や暴力シーン、エログロ、乱暴な言葉遣いをするマンガに対して
PTA,政府、マスコミ、警察関係までが
マンガの非難を始めるようになっていました。
小説や映画の世界でも状況は同じなのに
特に「日本子どもを守る会」や「母の会連合会」など各地のPTAが
児童マンガだけをやり玉にあげて内容の如何を問わず
すべてが悪書だと断罪していました。
そしてその当時の児童マンガの代表として
手塚先生が
「子供を迷わす張本人」として吊るし上げられたというわけです
このような批判の的になった一つの要因として
「赤本」(あかほん)の存在が原因のひとつとしてあります。
赤本というのは、紙質も内容も粗悪な玩具本のことなんですけど
確かに内容は低俗なものが、かなりあったようですね。
これにより
「赤本マンガには文学のような哲学がない」
「子供に与える美しさがない」として批判の対象になりました。
しかしこの「赤本」が出てきたのも理由があるんです。
戦争が終わったばかりの昭和20年代前半、
東京の大手出版社に、印刷する紙がなくて
思うように本が出せないでいる中、大阪の小さな出版社や問屋が、質の悪い紙を使ってバンバン出していてそれが子供たちに受けて売れに売れちゃったんですね。
あの手塚治虫伝説のデビュー作「新宝島」も大阪の育英出版という小さな出版社から刊行されたもので、いわゆるこの「赤本」と呼ばれるものです。
当時10万部で大ヒットと呼ばれるものが「新宝島」は40万部も売れた異例の大ヒットという記録を作ります。
一般の書籍流通ルートでない本がバカスカ売れていたわけですから
そりゃあ大手出版社からすると面白くなかったことでしょう。
そういう背景からみると
「悪書追放運動」とは低俗だからという理由だけでなく
政治的なキナ臭さも漂ってきますね。
行政、警察、マスコミが全圧力をかけて潰しに来た理由もわかります。
そんな中、手塚先生は、こういった批判に対してどう反応したのか?
ということですが…
実はそんな追放運動になる前、
1950年に発表した「漫画大學」でそのひとつの解答を示しています。
この本の中で手塚先生は、俗悪で内容もお粗末な赤本マンガが多く出回っていることを認めた上で、マンガを書く上での
「テーマの選び方」や「表現方法」などを分かりやすく説明しています
この時すでに、起こるであろう世のマンガ批判に対し、一早く察知し
より良い作品を生み出す環境を整えて行くことが大事だという姿勢をとっているんですね。
実際、石ノ森章太郎先生など後に世に出た多くのマンガ家が、
この本でマンガの描き方を学んだと語っているように
正常な判断を持てた子供たちにとってマンガは「悪書」でもなんでもなく
これを読んだ若者たちがしっかりと学び
後の日本文化の発展に大きく貢献する偉人たちとして
育っていくわけですからなんとも不思議な話です。
これこそマンガそのものが悪いわけじゃなく
悪いマンガもあるという証明です。
なんでもそうです。
TV番組でもTV自体が悪いものではなくて
良い番組もあれば、悪い番組もある。
お笑いも「お笑い」が悪いわけじゃなく悪いお笑いもあるということ…。
低俗なものが出てくるとすぐにそのジャンルを叩こうとするスタイルは
今も昔も変わっていませんよね。
続いて
昭和27年手塚治虫の担当編集者を務めた福元一義さんの記事を紹介します。
昭和30年、独立してマンガ家となった福元さんは
「轟名探偵(とどろきめいたんてい)」などのヒット作を書きましたが
わずか2年でマンガ家をやめ、
手塚プロダクションへ入社した方です。
福元さんは当時を思い出しながら、こう語っておられます
「私がマンガ家になった頃のマンガ批判というのは、
それは厳しかったですねえ。焚書と言いましてね、
学校の先生やPTAが、子どもたちからマンガを取り上げて集めて、
校庭で燃やしたりしたんです」
「ある日テレビのニュースを見ていたら、悪いマンガの例として、
私の『轟名探偵』のトビラ絵がいきなり大写しになったんです。
「えっ?」という感じで、一瞬、目を疑いました。
それはもうショックでしたね。
当時は娘がまだ幼かったですから、将来、自分の作品のせいでいじめられたらと思うと、とてもマンガは続けられないと思ったんですよ」
とその時の思いを語っておられます。
結果、これが原因で福元さんはマンガ家をやめる決心をしたそうです
「あのころは、
私と同じ理由でマンガをやめた人も多かったんじゃないでしょうか。
それほどマンガに対する風当たりが強かったということなんですよ」
いかに当時の社会情勢が偏ったものであったかが物語るエピソードですね。
まさに漫画家の息の根を止めるような出来事であったと言えます。
そんな中にあって避難の的の親玉であった手塚先生がどうだったかということも福元さんは語っておられます
「手塚先生はそれはもう立派でした。
誰からどんな風に批判されても、
逃げるどころか自分から前へ出て行って、
はっきりと意見を述べておられましたからね。
PTAの集会なんかにも、つるし上げられると分かっているのに、
必ず出席して壇上に上がりマンガの魅力を力説していましたよ」
福元さんによれば、
マンガが一段も二段も低い存在として見られていたことに対し
手塚先生は子どもマンガの地位向上を目指して精力的に活動していたそうです
冒頭に申し上げましたように
一次資料が乏しいだけに実際は何が本当なのかはわかりませんが
マンガが弾圧の対象であったことは間違いありません。
そして無茶苦茶であったことは否めませんね。
「デタラメを書くな!」「荒唐無稽だ」ってことが原因で
SFが全部「荒唐無稽」扱いされたそうですけど
SFなんてそもそも「荒唐無稽」ですよ。
ファンタジーですよ(笑)
まぁ何にせよ過激な時代です
敗戦間もないこの国で
教育の一環なのか、別の圧力なのか分かりませんが
子どもたちの物理的な選択肢を奪いコントロールしようとしていたのは確かですね。
率先して動いていたPTAも当時のGHQが指示して設立されたといいますし
共産主義とか左翼絡みとか、色々深堀るとドス黒い面が出てきそうなので
ここでは触れません。
事実として手塚先生がそうした社会情勢にも屈せず
面白いマンガを描き続けてきたことは確かです。
ここで手塚先生の興味深いコメントがあります。
「ボクは個人的にはマンガが売れるようになったのは
俗悪まんがのおかげであって言い換えれば
いいマンガっていうのは決して売れない…。
親が喜ぶようなマンガって本来マンガとしての価値はない」
と言っています。
これ完全にロックですね。めちゃくちゃカッコイイ!
「親に嫌われるのがロックだ」というような発言をキッスの
エースフレイリーかポールスタンレーが言っていたような気がしたんですけど…あれ?誰だっけ???
モーターヘッドのレミーもそんなこと言ってた気が…。
手塚先生も超ロックなんですよ。
さすが漫画界のゴッドです。
「良いマンガを描きなさい」と指示されて
父兄や教育者にとって良い漫画を描いていたらきっと今日の漫画文化の発展はなかったことでしょう。
…というかそんなつまらない教科書みたいな漫画だったら
絶っっっっっ対に子供たちも読まなかったと思います。
そんな中、火に油を注ぐように
手塚先生は日本初のキスキーンをマンガで書いてさらに
批判していた方々にヒステリーを起こさせます(笑)
『こんなハレンチな漫画を描く手塚という男は、子供の敵である』とか
共産党員と称する読者から、『売国奴すぐ処罰すべし』という脅迫文も受け取ったそうです
(講談社版全集『拳銃天使』あとがきより)
今見ると全然大したことないんですけどね
だけど当時としては卒倒するほど衝撃的なシーンだったようです
あとは、性教育マンガを書いて学校の先生に見せたら
「こんなのとんでもない!!」って怒られたり
方々から非難されながらも
新しいマンガの可能性を常にチャレンジし続けた手塚先生
こうした手塚先生の地道な努力と新世代のマンガ家たちの活躍によって
マンガが市民権を獲得してきたわけですが
今は政治家までもが
「マンガは日本の誇れる文化だ」なんてドヤ顔してますけど
そのドヤ顔は
手塚先生のおかげだということを忘れないでほしいですね。
まぁいつの時代もドヤるだけが仕事みたいな方々には
時代に新しく加わったメディアに対しての反発は
もはやお約束みたいなところもあるんでね
考えるだけムダなのかもしれませんね。
最後に明治中期の新聞にはこんな記事が載っていました。
「近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。
これは子供の危機である。」
…と
これによって小説は悪書と呼ばれバッシングが発生したんですって。
ははは…
なんじゃそりゃ…?
「歴史は繰り返す」
…というわけで今回は「悪書追放」「焚書活動」についてお話しました。
時代の流れを知ることで手塚作品をより深く
楽しめると思いますのでぜひご自身でも調べてみてくださいね。
次回はハレンチマンガについてお届けいたします。
日本漫画発展の歴史において避けては通れないハレンチマンガの歴史
手塚治虫が社会に抵抗しながらも描いてきたハレンチマンガを
解説してみますのでお楽しみください
ではまた次回。