見出し画像

伊勢神宮は、かつて僧侶たちの立ち入りは禁止だった

5631文字

このnoteでの、「伊勢神宮は、僧侶たちの立ち入りは禁止!」
この規則は実際行われていたという情報がWEBに転がってて紹介。(^_^;)

前回のおさらい

第六天魔王の逸話の謎と「日本国の国名の由来」の話の、

「太平記/巻第十六:143 日本朝敵の事」

堅い誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説はこれなり。

誠に内外の宮のありりさま、それ以外の社壇(神を祀る祭壇)とは事をかええて、本地(本来の姿)を現せる鏡をもかけず、念仏読経の声を止めて僧と尼の参詣は許されません。しかし当社の神約を不違して、化属結縁世俗の人を教化して仏法に縁を結ばせること)の方便を深く隠すためなるべし。

もう一段階、現在の言葉に翻訳

誠に内外の宮のありさま(状態)や、それ以外の神を祀る祭壇とは違い、本来の姿を現す鏡もかけず、念仏読経の声も止めて僧と尼の参詣は許されません。これは当社の神約を破らず、世俗の人を教化して仏法に縁を結ばせるための方便(罠)を深く隠すために作られました。(^_^;)

もともと天皇・朝廷に、

1.随神の道(唯一神への道があった)
2.鬼(神々)と民の恨み呪いで朝廷内は死にかかった。唯一神に願いをかけた。唯一神は三宝(仏教)を広めよ述べた。
3.明治三年、明治政府は、天皇を神とする宗教、神道を交付した。

だから仏教は唯一神(神道・神への道)の罠・・・分かれたものではない・・このような関係だったのでは?(;´Д`)


ーーーでは本題ーーー

どうも本当に僧侶禁止やってたのね!(^_^;)

伊勢神宮は、かつて僧侶たちの立ち入りは禁止だった

政界の中央にまで名を馳せていた西行ですが、実はそんな西行であっても、伊勢神宮の境内には入れなかったといわれています。伊勢神宮は古来より、僧侶たち専用の遥拝所を設け、仏教との接触を避けていました。

「僧侶は拝殿に近づいてはならぬ」

こんな話がある。
ある僧侶が伊勢神宮に参詣しようと考え、ふつうの人の服装に着替えて−−頭には頭巾をかぶったのだろう−−拝殿に近づいたところで神官に見咎められた。
「あんたはお寺の人じゃないですか。僧や尼さんのためには特別の『僧尼拝所』がもうけてあります、そっちへ行って下さい」

発見されるのは予定のこと、「よーし、言い負かしてやるぞ」とばかりに、準備してきた理屈をならべたてる。
「僧職にある者に参詣させない掟は知っておる。しかしじゃ、そもそも本地垂迹と申して、仏と神の区別はないのじゃ・・・。」

「ほほお。掟のあるのを知っていながら掟を破ろうというのなら、よろしい、言ってあげましょう。諸国には女人禁制のお寺が沢山ありますが、あなたと同様、女の人が掟をやぶって女人禁制の寺に参詣してもよろしいわけですな」

お坊さんはすごすごと退散した。『翁草』という本に出てくる話だから、江戸時代にあったこと、あるいは、事実めかして作られたフィクションだろう。

翁草』(おきなぐさ)は、江戸時代に書かれた随筆。前編・後編をあわせて全200巻。

僧尼拝所というのは内宮の風宮橋の左岸を登ったところにあった。その風宮橋は、五十鈴川の支流で、今はは島路川といっている小さな流れにかかっている。参詣順路に合わせて説明すると、五十鈴川の宇治橋を渡って右に折れ、「斎館」や「神楽殿」のあるところを左に行くと「正殿」の前に出る。

普通の人はこの順路で正殿に参詣するが、参詣を禁止されていたころの僧尼は斎館や神楽殿のところを曲がらず、真っすぐに南へ行くことになっていた。すると島路川があって、風宮川を渡ったところが「風日祈宮」だ。僧や尼、医師など、頭をまるめた人は、すべてここから正殿を遙拝することになっていた。

内官の広大な神域は五十鈴川と島路川に囲まれていて、僧尼拝所や風日祈宮は神域の外側、あるいは外れたところにある。僧や尼を差別していた姿勢がうかがえるのである。松尾芭蕉も頭をまるめた姿をしていたから、この僧尼拝所からでなければ参詣できなかった。芭蕉の先生で医師でもあった北村季吟も同様だ。


例外がないわけではない。後深草上皇に寵愛された二条という女性(久我雅忠の娘)は人生の煩悶のすえに出家して、諸国の寺社巡礼の旅に出た。嘉元四年(一三○六)頃のことで、彼女はこの参宮のことを『とはずがたり』という日記体の作品の中に書いている

津島から桑名をへて伊勢に着いた二条はまず外宮に行き、外宮の僧尼拝所とされていた二の鳥居で礼拝をすませようとした。しかし、神宮のはからいで正殿まで案内され、尼の身でありながら普通の人と同様な形で礼拝することができた。

内宮ではどうであったのかわからないが、二見浦の見物を望んだ二条に荒木田禰宜が案内をつけてやった好意を思うと、上皇の寵愛を受けた女性という経歴があっての持別扱いには違いないが、外宮に行ったときの彼女が、「自分は尼になっているのだから、普通の人と同じ所ところからは礼拝出来ない」という認識をもっていたのは注目に値する。
 僧侶や尼でも参詣してよろしい、しかし普通の人とは異なる扱いになるから、そのつもりで−−これが仏教関係者に対する神宮側の姿勢だった。


なぜ「お経」はタブーの言葉なのか?

伊勢神宮で「染紙」といったら、何を指すのか?伊勢神宮で「染紙」といえば、仏教のお経のことだった。「紺紙金泥の経」という言葉があるように、お経の地紙は紺色に染めてあるのを高級な物とした。紺紙に金泥で経文の字を書いたのが紺紙金泥の経である。

神道と仏教の区別を厳格に付けなくてはいけないというタテマエがあるから、お経を「経」というと仏教を全面的に認めているようになる。そこでわざわざ「染紙」と言い換えてタテマエを守ったのだ。
こういう言葉を「忌詞」といい、伊勢神宮では十四の忌詞が作られていた。十四のうち七つまでが仏教に関するものである。

仏−中子、経−染紙、塔−あららぎ、法師−髪長、優婆塞(在家の仏教修行男性)−つのはず、寺−瓦葺、斎食−片食。
すぐには分からないものもあるが、「寺−瓦葺」などは傑作だ。瓦で葺いた寺院の屋根は、檜皮葺の神宮の建物とまさに対照のものだから。

寺院の屋根は瓦         神社の屋根は檜皮葺

仏教関係の他では「打つ・泣く・血・死・墓・病む」と「宍(動物の肉)」とが忌詞として口にすることを禁止されていた。
前の六語は「現実の幸福を否定することがら」として、また「宍」は「一般人は食用としない品」として禁止されたと考えられている。(桜井勝之進「伊勢神宮」)

忌詞(いみことば)
宗教的な理由から、また縁起をかついで、使うのを避ける言葉。古くは斎宮で「仏」「経」などを、民間で婚礼のときに「去る」「帰る」、正月の三が日に「坊主」「箒(ほうき)」などを忌んだ。
1の代わりに使う言葉。斎宮で「寺」を「瓦葺(かわらぶ)き」、「僧」を「髪長(かみなが)」、民間で「すり鉢」を「あたり鉢」、「梨(なし)」を「ありの実」というたぐい。

仏教伝来時まで遡る「反仏教」思想

先に神道があって−−神道という言葉は新しくつくられたものだが−−そこへ仏教がやってきた。

この著者は、ちょっと知っているのかな?

宝亀年間(770〜781)のことだが、伊勢の神官の中にも新しい仏教に興味を感じ、積極的に仏教を学ぼうとする者が出てきた。すると”朝廷”は、「神宮の役所や宮中で仏事を行なうのは男女の密通と同様の罪とする」という掟を作った。それでも神官のあいだの仏教への興味を根絶するにはいたらなかった。

奇妙な逸話−−大仏建立に感激した天照大御神

神道関係者の中には、「仏教が攻撃をかけてくる、警戒しなければならん」という雰囲気が強くなった。743年10月、聖武天皇は東大寺に巨大な大仏(盧舎那仏)を作ると発表した。

盧舎那仏               行基

東大寺の大仏のスケールの大きさ、造営プロジェクトの膨大さ、新幹線と高速道路を全国いっせいに作ってしまう、それぐらいに凄まじい事業であった。
これに協力したのが民間で圧倒的な支持を得ていた僧の行基であるが、行基の大仏造営協力について『元享釈書』という書物は次のように述べている。『元享釈書』は鎌倉時代の末期、京都東福寺の虎関師錬という僧によって書かれた日本仏教史の本だ。

聖武天皇は行基に一粒の仏舎利(釈迦の骨)を与え、これを伊勢神宮に奉納せよと命じた。

行基は神宮の社前にこもって祈りを捧げていたが、七日目の夜、神殿がひとりでに開き、どこからか大声がとどろいた。
「私はいま、これ以上はない大願に接して、渡りに船を得た気持ちである。また尊い宝珠を受けて、暗闇に明かりを得た思いである。行基よ、その舎利は飯高の地に埋蔵せよ」
アマテラスの声に違いない。大仏を建立する聖武天皇の大願にアマテラスは大感激し、建立の成功を願うために大切な仏舎利を奉納するという天皇の志が「渡りに船、暗闇に明かり」を得たように嬉しいというのだ。


仏舎利は仏教徒にとっては最高の価値があるが、日本の神アマテラスには一文の価値もない。アマテラスが大感激するはずはないのだが・・・。


だが、そうはいっても、腹立たしい気持ちをおさえられない人はいた。神道擁護の立場にたって、仏教を排撃しなければならない、仏教が入ってきてから日本は不味くなったと思いこんでいる人だ。
 
「もし『元享釈書』の言うのが事実ならば、神宮で仏事を行なうのを禁じなかったことになり、掟に反している。神が『渡りに船』とか『暗闇に明かりを得た思い』と言ったなどというのは、とんでもない。また神殿がひとりでにひらいて、『実相真如』などという大声がしたのが事実なら、天下の一大奇事である、国史に正しく書いてあるはずだ。それが書かれていないのは、この話のすべてが後世の仏教者の虚言だからである」

なかなか筋は通っている。「これがウソなのは子供でもわかる」と懶斎は言う。子供にさえ見破られるウソをついてまで、なぜ『元享釈書』は、天皇が行基を伊勢神宮に行かせたなどと書いたのだろう?

しかし、また、こういうふうにも考えられる−−『元享釈書』の書き方がまずいのであり、行基の代理のものが伊勢に行ったのは本当ではなかったのか、と。
つまり、聖武天皇としては重要な人物を伊勢神宮に派遣しなければならない、切羽つまった事情があったのではないか、という推測が生まれる。

(水銀の話に続くのだが大きくカットしている)

もうひとつ、奇妙な話がある。

再三、伊勢へ向かう僧の一団とは・・・

1180年12月28日、東大寺の大仏は平重衡の軍隊に火をつけられ、全焼してしまう。

平家を滅亡させて権力をにぎった源頼朝はさっそく大仏の再建事業にかかり、俊乗坊重源という僧を責任者とした。重源は一輪車に乗って全国くまなく駆けまわり、大仏再建の資材と資金、そして人力を集める。再建事業にとりかかったそのはじめ、重源は−−重源は伊勢神宮に行った!

重源

東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。

東大寺の大仏をつくる、焼けたから再建する。造営責任者の僧がまるで法律で決まっているかのように、造営責任者の僧が伊勢神宮に参拝するのだ。

時代が古いせいもあって行基の伊勢参詣の件はぼんやりしているが、重源の揚合はハッキリしている。1186年4月、僧侶六十人をふくむ七百人もの大勢が奈良から伊賀の黒田荘をへて伊勢に向かった。そもそも、重源がなぜ大仏再建事業を引き受けたのかというと、夢に弘法大師空海が立って「汝は東大寺の大仏を再建すべきである」と告げたからだ。

そして、伊勢神宮に参詣したのは、これまた彼、行基の夢に伊勢の大神、つまりアマテラスが現われたからだという。

一度ならともかく、二度までも夢告をもちだされると、「ウソだな。なにか大変なことを隠すために夢告をもちだしたんじゃないか?」と、疑いたくなるのも無理はない。

そこで、疑うことにする−−大仏造営と伊勢とのあいだには大変な謎がある、それは何か?

一つの手掛かり、伊勢・丹生村に眠る「水銀」

ワシ:水銀の話になるが、大きくカット。

大仏の金メッキに必要な水銀を調達するために、水銀の産地、伊勢に行基が行ったと考察しているんだけど・・つまり、聖武天皇としては重要な人物を伊勢に派遣しなければならない、切羽つまった事情があったのではないか、という上でチラと出た話は、水銀調達のため。水銀について面白い話は延々続くのだが、ここではカット。

>仏舎利は仏教徒にとっては最高の価値があるが、日本の神アマテラスには一文の価値もない。アマテラスが大感激するはずはないのだが・・・。

作り話かもしれないが、日本の神アマテラスと仏教は滅茶関係が深いのだ・・・!(^_^;)

【超重要】1191年以前に成立
空海の仮託の両部神道書の『中臣祓訓解』

翻訳文はこのnoteに元々あるが、もっと現代語にしたものを作った。

文章の前後を入れ替えてたりする。
(↓こちらのnoteにも足した、2024年4月更新。こちらをお買い上げの方へ。同じ文がコチラにもあります。)

ここから先は

325字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?