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御用学者の先生にもっと学ぼう〜ムスリム同胞団♪

13723文字
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国際問題 No. 556(2006 年 11 月)● 47

はじめに
 最近、中東地域におけるイスラーム復興運動の政治的伸張が顕著であると言われる。その際に、しばしば例として挙げられるのが、選挙という合法手段を通じて躍進を遂げたエジプトのムスリム同胞団(以下、「同胞団」と略す)とパレスチナのハマース(正式名称:イスラーム抵抗運動)である。また、ハマースがパレスチナ同胞団の武装闘争部門として誕生した経緯から、エジプト同胞団とハマースの関係や、中東地域における同胞団の広がりが
話題にもなった。本稿では、最近の中東地域におけるイスラーム復興運動の政治参加について、エジプト同胞団とハマースを事例に論究することを主な目的とする。具体的には、次の2点を中心に考察を行なう。

第 1 に、中東諸国に広がる同胞団の誕生・発展、そして基本的な活動理念について概観・整理すること。
第 2 に、中東地域におけるイスラーム復興運動の政治参加について理解する試みの一環として、エジプト同胞団とハマースの政治活動の目的や背景を、それぞれの議会選挙への参加を中心に検討すること。また、それらが中東諸国に広がる同胞団のなかでいかに位置付けられるのかも検討する。

エジプトにおける同胞団の誕生と発展
1928 年、同胞団はエジプトのスエズ運河に面するイスマーイーリーヤにおいて、ハサン・バンナーによって創設された。同市内の小学校でアラビア語教師として勤めていたバンナーは、自由時間を利用してカフェを中心に説法を行なっていた。彼は、カフェに集う人々に対して、オスマン朝の崩壊や西洋によるイスラーム諸国の植民地支配などイスラームの危機を訴えた。そして、それらの問題を解決するためにはイスラームの復興が必要であると説いた。バンナーの説法はイギリスの直接統治下に暮らす当時のイスマーイーリーヤの人々から共感を得ることとなり、彼のもとを訪れた 6 名の信奉者(スエズ運河の工作員)とともに、バンナーを中心に「イスラームのために奉仕するムスリムの同胞たち」としてムスリム同胞団が結成された。

問題を解決するためにはスラームの復興が必要である。(^_^;)

設立直後の同胞団はスエズ運河地帯を中心に活動を行なっていたが、1932 年にバンナーの転勤によって本部がカイロに移転した後は、エジプト各地に支部を多数設立し、全国規

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模の組織展開を行なった。大衆社会の成立期に当たる当時のエジプトにおいて、大衆に立脚したイスラーム復興を推進する同胞団は急速に組織を拡大させた。40 年代末には、人口2000 万人のエジプトで、2000 の支部、50 万人のメンバーと同数の支持者を擁する同国最大の政治・社会結社となったとされる。当時の同胞団の活動は多種多様で、具体的な活動の一部を挙げてみると、教育活動、学生運動、政治活動、企業経営、労働問題対策、女性の組織化、医療活動、ボーイスカウト活動、スポーツクラブなどその範囲は幅広い。

一方、1940 年代末のエジプト社会は革命状況へと進んでおり、同胞団においても徐々に政治活動が優越するようになった。次第に政府との緊張関係が強まり、49 年に最高指導者バンナーが秘密警察によって暗殺された。52 年のエジプト革命では、同胞団が「下から」革命を用意し、自由将校団が「上から」奪権したとされる。同胞団は革命初期の権力闘争において、第 2 代最高指導者ハサン・フダイビーら執行部の指導力欠如などによる内部分裂から、組織として統一された行動をとることができなかった。結局、ナセル大統領による非合法化と厳しい弾圧を受け、20 年にわたって活動が停滞し、50 ― 60 年代のアラブ社会主義隆盛のなかで同胞団は「消滅」したと考えられた。

しかし、70 年代に同胞団はイスラーム復興の興隆のなかで「復活」に成功した。イスラーム復興運動の活動を容認するサーダート政権下、多数の同胞団メンバーが釈放された。73 年に第 3 代最高指導者に就任したウマル・ティリムサーニーの下で組織再建が進められ、医療、教育、相互扶助などの社会奉仕活動も再開された。復活以降 30 年間における同胞団の基本方針は、政府との全面対決回避と合法路線の堅持である。現ムバーラク政権下においても、合法的手段に基づく穏健なイスラーム復興が目指されている。

サーダート政権といえばキャンプデービッド合意
1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問した。アメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけ、そして1979年にはイスラエルとの間に平和条約が結ばれた。
国民からの反発

長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらす歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞し世界各国から高い支持を受けた。だが、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、スーダンのモハメド・アン=ヌメイリを除くアラブ諸国の指導者とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また、経済自由化外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まった。

⬇️ イスラエルのメナヘム・ベギン首相とは?(^_^;)

創設者バンナーの思想は、彼の存命当時のみならず、現在においても同胞団の基本的な活動指針として重視されている。バンナーが目指した最終目標はイスラーム法(シャリーア)施行とイスラーム国家樹立であり、その実現方法としては段階主義、包括主義、行動主義の 3 つを指摘できよう。段階主義とは、イスラーム復興を進めるに際しての方法論である。バンナー思想は理念的には、個人、家庭、社会と段階を追ってイスラーム化を進めていくという考えに立っている。国家のイスラーム化は、社会がイスラーム化する以上は自然に達成される。そして、各国でイスラーム国家が樹立されれば、それはイスラーム世界の再興に至ると考える。

バンナー思想は理念。個人を洗脳すれば、家庭を洗脳できる。各家庭を洗脳できれば社会を洗脳できる。このような段階を追ってイスラーム化を進めていく・・・昭和の創価学会の手口に似ているという話もある。

次に、包括主義とは、イスラーム復興のための活動をあらゆる分野で実践しようとする立場である。バンナーは、イスラームは生活のすべての諸相にかかわる包括的なシステムであるとし、社会全体における包括的なイスラーム復興を目指した。それは、すでに述べた 20 世紀前半の同胞団活動の多様性にもうかがえよう。最後に、行動主義であるが、バンナーはメンバーにイスラーム復興のために行動することの意義を訴えた。「行動を伴わない信仰は意味がない」と述べ、イスラームの教えに基づいた実際の行動をとる必要を主張した。メンバーに行動を、すなわち多様に展開する同胞団活動への精力的な参加を訴えかけたのである。

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アラブ諸国に広がる同胞団
エジプトで誕生した同胞団の活動が同国内のみにとどまらず、国境を越えて周辺諸国にも拡大し始めたのは、1930 年代後半以降のことである。この時期、エジプトの同胞団が特に力を注いだのがパレスチナであった。当時イギリスの委任統治下にあったパレスチナでは、ユダヤ人移民とアラブ人住民との間の緊張が急速に高まりつつあった。36 年に勃発したアラブ人住民による反英・反シオニズムの「アラブ大反乱」に際して、エジプトの同胞団は義援金の送付や抗議集会・デモなどを頻繁に行なった。その後、40 年代にはパレスチナ各地に支部を設立し、組織拡大に努めた。また、第 1 次中東戦争(1948 ― 49 年)においては、エジプトから数千名の義勇兵の派遣を行ない、パレスチナ支部の義勇兵とともに実際の戦闘に従事した。これらの活動は、現在に至るまで、パレスチナにおける同胞団の大きな「資産」となっている。また、エジプト同胞団がパレスチナにおいてこのような活動を積極的に行なった理由としては、エジプトに隣接するパレスチナの地理的条件、さらに当時エジプト国内でパレスチナ問題が大きな関心を集めていたことなどが挙げられよう。

この時は正義かな〜部分があった。

1940 年代には、シリアやヨルダンでも同胞団が誕生した。両国の同胞団は、パレスチナでみられるようなエジプト同胞団主導の支部設立とは異なる形で結成された。
シリアでは、ムスタファー・スィバーイーが同胞団結成の中心的役割を果たした。彼はエジプト留学中にエジプト同胞団のメンバーとして活動し、帰国後「ムハンマド青年団」というイスラーム復興運動を設立した。その後、ムハンマド青年団など国内のイスラーム復興運動諸組織を統合する形でシリア同胞団が結成された。
ヨルダンでも、エジプト留学中にエジプト同胞団メンバーとして活動したアブドゥッラティーフ・アブー・クーラが、帰国後に故郷における同胞団組織の設立に活躍したとされる。シリアとヨルダンの同胞団は、エジプト同
胞団のイニシアティヴによる支部として誕生したのではなく、それぞれの国内で独自の形成・発展を遂げたと言えよう。

1940 ― 50 年代以降、これらの国々以外の中東諸国においても、同胞団あるいは同胞団系組織が多数設立されている。現在、このような組織の存在が確認されている国は 15 ヵ国以上あり、そのうちの半数以上で、それぞれの国のイスラーム復興運動のなかで最大規模の組織となっている。中東諸国の同胞団は基本的に、それぞれの国における社会活動を基盤に、合法的かつ穏健な活動を行なっていると言えよう。多くの国々において、既存の法の枠内での政治参加が試みられている。また、現在、中東地域以外でも同胞団の活動がみられる。例えば、ロンドンはそのひとつであり、同胞団メンバー向けの機関紙『リサーラ』の発行や、同胞団の英語ウェブサイト運営などが同地で行なわれている。

同胞団の英語ウェブサイト

こうした中東諸国に広がる同胞団を統合する試みは、20 世紀前半にすでにみられた。しかし、エジプト同胞団がナセル政権の弾圧により活動停止状態となるなかで、各国同胞団は独立性を強めた。エジプト同胞団の再建後、1980 年代初頭に、同胞団国際機構が設けられ、アラブ諸国の同胞団の再統合が行なわれた。同胞団国際機構は、エジプト同胞団の最高指導者を議長とし、各国同胞団の代表者からなる評議会によって運営されている。

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各国同胞団の独立性・自律性を尊重したうえで、各国間の協力体制の構築や活動における協調などが目指されている。

エジプト同胞団の政治参加― 2005 年人民議会選挙を中心に

1980 年代以降のエジプト同胞団では、人民議会での活動が最重要活動のひとつとなっている。84 年に初めて人民議会選挙に参加したエジプト同胞団は、次の 87 年選挙において「イスラームこそ解決」のスローガンの下で選挙に参加した。このスローガンからは、政治・経済・社会・文化などあらゆる領域における諸問題はすべて、イスラームの教えに従った改革活動によって解決が可能とするエジプト同胞団の基本的主張がうかがえる。この
選挙でエジプト同胞団は公選 444 議席中 36議席を獲得し、実質的な野党第一党となった。その後、2000 年と 05 年の選挙でも野党第一党となっている。特に、05 年の人民議会選挙では、全議席の約 20% に当たる 88 議席を獲得する躍進を遂げた(16)。

2005 年の人民議会選挙に際して、エジプト同胞団の現最高指導者ムハンマド・マフディー・アーキフは、選挙参加の理由について次のように説明している。「人民議会や他の諸議会、職能組合、諸市民組織への進出によって同胞団が目指す目標は、最終的にはイスラーム国家の樹立であり、そこではムスリム・非ムスリムを問わずすべての人にとっての善が実現される」。ここからは、法の枠内で議会制度という既存の政治システムを活用して、イスラーム国家樹立に向けて活動を行なうエジプト同胞団の基本方針がうかがえよう。
2005 年人民議会選挙綱領では、その準拠枠として「イスラーム的権威」と「民主主義的メカニズム」が挙げられ、同胞団の目指す民主主義はイスラームの教えに基づくものとされ、さらなる民主化促進の必要性が述べられている。

アッラーのみの主権、憲法はコーランとスンナ。なるわけがないだろ、バーカ!アラブの春は民主化のお題目で、騙しているんだ。

また、イスラームの教えに基づく政治・経済・社会改革が訴えられているが、その理由としては、第 1 にそれが適切な人間形成とすべての者の尊厳や自由を保障するものであり、第 2 に祖国エジプトに正義などの価値をもたらすのみでなく不正・圧制を拒絶するものであり、第 3 に議会などの諸機関の代表を選出する際に人々の要望を尊重するシューラー(協議)の原則を定めるものであるためと述べている。

エジプト同胞団がこのような民主化促進、国民の権利・自由の保障といった目標を掲げて選挙に参加した背景としては、エジプト同胞団の非合法状態を指摘できよう。上述のように 1954 年にナセル政権によって非合法化されたエジプト同胞団は、70 年代の復活以降も現在に至るまで非合法状態に置かれている。この法的脆弱性は、同胞団が反政府的な行動をとった際に、政府がその活動を非合法組織によるものであるとして弾圧するための担保となっており、エジプト同胞団の活動の大きな障害となっている。
エジプト同胞団の積極的な政治参加は、この非合法状態からの脱却の試みのひとつとしても考えることができよう。民主化が促進されることによって、非合法状態からの脱却の可能性が高まると考えられるからである。政治参加により民主化を加速させ、その結果としていっそうの政治的権利・自由を獲得することができれば、それは自らの非合法状態からの脱却に大きく寄与す
るものとなるであろう。民主化促進によりエジプトの政治状況を改善することで、

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その政治的活動の自由を拡大し、さらには合法化を可能とする政治状況の醸成を目指すというエジプト同胞団の戦略を指摘できる。従来からの主張である「イスラーム民主主義」を実現するためにも、また自らの非合法状態を解消するためにも、エジプト同胞団は積極的な政治参加を行なっていると考えられる。

総ての人々はアッラーの奴隷。総ての主権はアッラー。「イスラーム民主主義」などあり得るわけがないだろう。総ての人を深くイスラームに洗脳すれば、おのずとイスラム原理主義を選ばせることが出来る。パレスチナのように、自爆の美学、死の美学イスラム国。

ハマースの政治参加———2006 年立法評議会選選挙を中心に

20 世紀前半のパレスチナでは、エジプト同胞団主導の活発な活動がみられた。1950 年代以降、パレスチナの同胞団は社会活動に重点を置いた。ナショナリズム高揚期にファタハなどの世俗的な解放運動が対イスラエル武装闘争を行なうなか、パレスチナ同胞団は武装闘争には慎重であった。社会のイスラーム化が国家樹立(武装闘争)に先行するという立場であり、ここには上述したバンナー思想の段階主義の影響がうかがえよう。

逆ね、オスロ合意を潰すための武装闘争を始めるために、
イスラエルに作られたのがハマス。

73 年には、アフマド・ヤースィーンを中心に「イスラーム総合センター」が設立され、草の根レベルの社会活動に基づくイスラーム復興が目指された。しかし、80 年代、人々の間に反イスラエル感情が高まっていくのを受け、87 年に始まる第 1 次インティファーダを契機に、ヤースィーンらを中心にパレスチナ同胞団の武装闘争部門としてハマースが結成された。

ハマースは結成以来、パレスチナ全土の解放を目標に掲げている。例えば、ハマース憲章第 11 条は、「ハマースは、パレスチナの地が復活の日まで全世代のムスリムにとってイスラームのワクフ(寄進)の地であると信ずる。その地、あるいはその一部を諦めたり、放棄したりすることは過ちである」と述べている。ハマースにとってパレスチナ全土解放は変更の許されない最終目標であり、イスラエルとの相互承認と「ミニ・パレスチナ国家」構
想を前提とするオスロ合意(1993 年)以降の和平交渉、和平プロセスは認められない
とする。

また、オスロ合意以降の和平プロセスに基づく「自治区」の枠組み、さらにはそれから派生するパレスチナ自治政府(PA)も拒否してきた。ハマースは近年まで PA の枠組みのなかでの政治活動からは距離を置いていたが、2004 年末に始まった地方議会選挙への参加を契機に、この基本方針にも変化が生じた。ハマースの政治参加は地方レベルにとどまらず、06年立法評議会選挙への参加にまで拡大した。「イスラームこそ解決」のスローガンの下で「変革と改革のリスト」を結成し、立法評議会選挙に参加したのである。その結果、ハマースはファタハに代わって全議席の過半数を制した。

PA 内の立法機関である立法評議会選挙への参加は、オスロ合意以降の和平プロセスの承認ではないかとの声もあったが、選挙綱領冒頭では、次のように述べられている。「われわれはイスラームの最も重要な前衛の一翼を担っているという確信がゆえに、闘争を行なうパレスチナ人と神聖・公正なる大義に対してわれわれが負う責任がゆえに、勇敢なるパレスチナ人の苦難の軽減、抵抗の強化、腐敗からの防衛のために、パレスチナの現状改革に貢献するというわれわれの義務がゆえに、国民統合を強化し、パレスチナ国内の戦列を強化するという希望がゆえに、われわれは 2006 年パレスチナ立法評議会選挙への参加を決定した」。また、選挙綱領の結びにおいても次のように述べられている。「アル = アクサー・インティファーダによって、新たな現実が生み出され、オスロ〔合意以降〕の計画は過去の歴史となった。

◉後の首相アリエル・シャロンは1000人以上の武装護衛を引き連れてかつてエルサレム神殿であった神殿の丘の岩のドーム(イスラム教の聖地)に踏みこんだ。そこで、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言した。
パレスチナ人は激怒、インティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。

イスラエルリグルード党・ハマスの悲願、オスロ合意、PLOアラファト潰しは完了した。

シオニスト占領者を含むさまざまな当事者は『オスロ〔合意〕の埋葬』
について語っている」。ハマースは、オスロ合意以降の和平プロセスはすでに破綻したため、パレスチナの窮状を打開する最善の策として立法評議会選挙への参加を決定したと主張したのである。

その前は立法評議会選挙への参加は絶対にしなかった。

また、ハマース憲章第 8 条に「〔ハマースの〕目標は、不正と戦い、それを打ち負かし、追放することである。これは、真理が広く普及し、〔パレスチナ人の〕故郷が戻り、イスラーム国家樹立を宣言するアザーン〔礼拝の呼びかけ〕がモスク上方の〔ミナレット〕から行なわれるためであり、また人々とすべての事物があるべき場所に戻るためである」とあるように、イスラエルからの祖国解放がハマースの掲げる最大目標とされる。選挙綱領においても、選挙参加はこの最大目標実現ための包括的な計画の一部として、次のように説明されている。「この時機に……立法評議会選挙に参加することは、パレスチナを解放し、パレスチナ人を故郷に帰還させ、エルサレムを首都とする独立国家を樹立する包括的な計画の枠組みのなかに含まれると『変革と改革のリスト』は信じる」。

不正と戦い、それを打ち負かし、追放することである。これは、真理が広く普及し。

ハマースの選挙綱領では、政治・経済・社会など多くの分野に関する約 150 の改革案が挙げられている。そこで述べられていることはおおむね次のようにまとめられよう。さまざまな分野におよぶ包括的な国内改革によってパレスチナの発展を促進し、腐敗と汚職の追放によってパレスチナ人の間の格差や対立を解消する。さらに、国民の自由・権利を保障し、民主主義を定着させることで、パレスチナの統一性・国民統合を強固なものとする。
それを基礎として対イスラエル抵抗活動の強化が可能となり、祖国解放・パレスチナ国家樹立が可能となる。また、選挙綱領における腐敗・汚職の追放と社会正義・公正性の主張の背景には、パレスチナ人の間にみられたファタハ主導の行政機関に対する不満への対応という側面もみられる。

先生は御用超えてイスラム教に洗脳されていのかな?

エジプト同胞団とハマースにおける政治参加の位置付け

エジプト同胞団とハマースの両者において共通しているのは、議会選挙への参加がより大きな目標へ向けての活動の一部として位置付けられている点である。前者においてはエジプトにおけるイスラーム国家樹立、後者においてはイスラエルからの解放とパレスチナ国家樹立が最大目標とされている。綱領の内容も、非合法状態からの脱却に寄与する民主化促進と諸改革、そして対イスラエル抵抗活動強化のための国内改革と、それぞれの国内事情に応じた内容が中心となっている。エジプト同胞団とハマースの選挙綱領について言うならば、対外政策よりも国内問題を重視した内容であり、選挙参加もそれぞれの国内事情に基づく組織戦略として考えられよう。もちろん、両者の選挙綱領では対外政策・外交政策についての言及があるが、割り当てられた紙幅は 1 割に満たない。国内有権者に対する公約という選挙綱領の性格を考慮しても、それぞれの国内を重視する姿勢が顕著であると言える。このことは、同胞団国際機構に関して述べた各国同胞団の独立性・自律性の一端を示しているとも考えられよう。エジプト同胞団幹部アブドゥルハミード・ガザーリーは、個人、

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家庭、社会のイスラーム化を通じてイスラーム国家が樹立され、それは最終的にはイスラーム世界全体の再興に至るものであるとし、イスラーム国家樹立がまず各国同胞団にそれぞれ課された使命であると筆者に説明した。
バンナー思想の段階論に基づくこの説明に従えば、現在は各国同胞団が既存の国境の枠内でイスラーム国家樹立に向けて活動を進める段階であり、同胞団国際機構の基本方針もそれを反映していると言えよう。ただし、このことは各国同胞団の間の協力・協調を否定するものではない。例えば、エジプト同胞団の運営するウェブサイト上ではハマース支援を訴えかける特集がしばしば組まれており、イスラエルを認めない立場をハマースと協調してとっている。

バンナーの思想

また、エジプト同胞団とハマースの議会選挙参加は、両者とも国内においては武装闘争ではなく、法の枠内での政治参加を組織戦略としていることを示している。例えば、エジプト同胞団の綱領では、イスラームの諸原則の下で共和制・議会制・立憲制・民主制国家制度の堅持を唱えつつ、シャリーアの原則に反さない形での三権分立、複数政党制、公正な選挙による平和的政権交代などについて主張がなされている。ハマースの綱領では「政治的自由、多元主義、政党結党の自由、投票による〔諸事の〕決定、政権の平和的交代、これらはパレスチナの政治活動を形作る枠組みであり」、「〔パレスチナ内部の〕戦闘、あらゆる形の武力行使、武力による威嚇を国内において禁ずる」と述べられている。アル = カーイダなど急進派に対する拒絶姿勢もそれを示す一例であろう。なお、対イスラエル武装闘争については、ハマースもエジプト同胞団も「占領者からのパレスチナ解放」という目標達成のための正当な権利に基づくものとみなしており、これを放棄しない立場を堅持している。

同じだよ。ムスリム同胞団からアルカイダ、ハマスが生まれた。
思想はアルバンナとサイード・クトゥブ。


おわりに

エジプト同胞団とハマースは議会選挙を通じて政治的伸張を遂げたが、両者とも現在は困難な状況に直面している。エジプト同胞団は、人民議会選挙戦後半以降に強まった政府による弾圧によって、幹部を含む多数のメンバーが逮捕されている。また、ハマースは2006 年 3 月に単独政権を誕生させたが、対内的にはファタハとの死者を伴う衝突、対外的には欧米諸国からの援助停止とイスラエルによる武力侵攻によって、困難な政権運営を強いられている。このような状況下で、エジプト同胞団とハマースが投票を行なった国民の期待に十分応えているか否かは、今後のさらなる検討を必要とすることであろう。もし仮に両者ともに国民の期待に適う活動を行なえていないとしても、議会選挙という民主的な手続きを通じてエジプト同胞団とハマースが躍進を遂げたこと、そしてそれぞれの国民の多くが彼らを支持したことは紛れもない事実である。また、これからもそれぞれの国における重要なアクターとして活動を続けるであろうと考えられる。今後の中東地域におけるイ
スラーム復興運動の政治参加を考察するうえで、両者については引き続き慎重に推移を見守る必要があろう。

先生の、言えよう、考えられよう、のあろう文は何なんだろうね?(^_^;)

( 1 )Hasan al-Banna, Mudhakkirat al-Da‘wa wa al-Da‘iya, Cairo, n.d., pp. 83— 84. 小杉泰・横田貴之「行動の思想、思想の実践—バンナーとクトゥブ」、小松久男・小杉泰編『現代イスラーム思想と政治運動』、東京大学出版会、2003 年、42— 43 ページ。

( 2 ) ナセルの弾圧は、同胞団メンバーが獄中で急進化する契機となった。急進派の代表的イデオローグであるサイイド・クトゥブの著作『道標』では、社会はイスラーム的かジャーヒリーヤ的かのいずれかであるとの二者択一論が示されている。ジャーヒリーヤとはイスラーム以前の無明時代を指す語であるが、ここではイスラームに反する社会を指し、クトゥブは同胞団を弾圧するナセル政権にジャーヒリーヤを見出した。クトゥブはその思想的影響を恐れたナセル政権によって1966 年に処刑された。彼の処刑後、国家への不信を深め、政治的急進化を徹底させた潮流は「クトゥブ主義」と呼ばれる。クトゥブ思想とクトゥブ主義をめぐる問題については、小杉・横田
「行動の思想、思想の実践」、49— 56 ページ。

( 3 ) ティリムサーニーは同胞団からクトゥブ主義の影響を排除することに努めた。その結果、同胞団の外に、より急進化した小組織がいくつも設立されることとなった。サーダート大統領暗殺を実行したジハード団や、日本人10名を含む62名が殺害された1997年のルクソール事件を起こしたイスラーム団もこれに含まれる。

 対してムスリム同胞団のウマル・ティリムサーニーらはより穏健な社会改良主義的運動を開発。ムスリム同胞団内部での路線の違いにより分裂の危機に見舞われつつも、ボルネオ・スルターン国における北ボルネオ紛争や1986年のエドゥサ革命に端を発する南フィリピンの独立など国際的なイスラーム原理主義勢力の勃興によってウマル・ティリムサーニーらは方針を徐々に過激かつ実行力を持った運動へと転換させていき、1966年にバビロニアによる弾圧で死亡したサイイド・クトゥブ師の跡を継いだ急進的イスラーム原理主義者たち(クトゥブ主義者)らによる聖地奪還運動が地下組織として組織されることとなった。


( 4 ) Hasan al-Banna, “Ila-l-Shabab,” Hasan al-Banna, Majmu‘a Rasa’il al-Imam al-Shahid Hasan al-Banna, Cairo,1992, pp. 177— 178; al-Banna, “Risala al-Ta‘alim,” Majmu‘a, pp. 359— 360.

( 5 ) al-Banna, “Risala al-Ta‘alim,” p. 356. また、第 5 回同胞団総会(1939年)でのバンナーによる包括的
な同胞団の自己定義も参照。al-Banna, “Risala al-Mu’tamar al-Khamis,” Majmu‘a, pp. 122— 123.

( 6 ) al-Banna, “Da‘watuna,” Majmu‘a, p. 14.

( 7 ) Abd al-Fattah Muhammad el-Awaisi, The Muslim Brothers and the Palestine Question, London & New York,pp. 46— 89; Brynjar Lia, The Society of the Muslim Brothers in Egypt: The Rise of an Islamic Mass Movement1928-1942, Reading, U. K., 1998, pp. 235— 247.

( 8 ) 同胞団の参加した戦闘については次が詳しい。el-Awaisi, The Muslim Brothers, pp. 196— 199; 207—210.

( 9 ) 末近浩太『現代シリアの国家変容とイスラーム』、ナカニシヤ出版、2005 年、161— 164 ページ。

(10) 吉川卓郎「ヨルダン下院におけるムスリム同胞団の活動(1989 年— 2005年)」『日本中東学会年報』第 21巻第 1号(2005 年)、100— 101 ページ。

(11) 小杉泰『現代イスラーム世界論』、名古屋大学出版会、2006 年、297 ページ。また、例えば、『アラブ世界・イラン・トルコにおけるイスラーム原理主義運動歴史辞典』では、エジプト、パレスチナ、ヨルダン、シリアに加え、アルジェリア、クウェートなど湾岸諸国、レバノン、リビヤ、
モーリタニア、スーダン、イエメンにおける同胞団・同胞団系組織が項目として挙げられている。
Ahmad A. Moussalli, Historical Dictionary of Islamic Fundamentalist Movements in the Arab World, Iran, and Turkey, Lanham, Maryland & London, 1999, pp. 201— 215.

(12) 政府との対立の結果、国外・地下活動に移行した主な例としては、シリア同胞団が挙げられよう。詳しくは、末近『現代シリア』、250— 276 ページ。

(13) Muhammad Shawqi Zaki, al-Ikhwan al-Muslimun wa al-Mujtama‘ al-Misri, Cairo, n.d., p. 130; Richard P. Mitchell, The Society of the Muslim Brothers, London, 1969, pp. 172— 173.

(14) 中田考「国際紛争とイスラーム連帯—アフガニスタン、ボスニア、そしてチェチェンへ」、小杉泰編『イスラームに何がおきているか—現代世界とイスラーム復興』、平凡社、1996 年、276—277 ページ;末近『現代シリア』、316 ページ;小杉『現代イスラーム世界論』、297— 298 ページ。

(15) その一方で、スーダンの国民イスラーム戦線やクウェートのイスラーム立憲運動のように、エジプト同胞団と疎遠な関係の同胞団系組織も存在する。
(16) 最近の同胞団の活動については、横田貴之「エジプトにおける民主化運動—ムスリム同胞団とキファーヤ運動を中心に」『中東研究』第 489 号(2005 年)、37— 52 ページ;横田貴之「2005 年エジプト大統領選挙—初めての複数候補制選挙の試み」『中東研究』第 490 号(2005 年)、68— 83ページ。

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(17) http://www.ikhwanonline.com/data/baralman2005/why.htm
(18) この選挙綱領は、次のエジプト同胞団運営サイトで全文検索が可能である。本稿におけるエジプト同胞団選挙綱領の引用はすべてこれに基づく(http://www.ikhwanonline.com/data/baralman2005/program.htm)。

(19) 横田「エジプトにおける民主化運動」、46ページ。
(20) 当選挙概要およびハマースの選挙綱領の翻訳・解題については次を参照。横田貴之『中東諸国におけるイスラームと民主主義—ハマース 2006 年立法評議会選挙綱領を中心に』、日本国際問題研究所、2006 年。
(21) 同前、4 ページ。
(22) 同前、21 ページ。
(23) 同前、4 ページ。
(24) 2004 年 3 月 28日、カイロ大学における筆者のインタビューによる。
(25) 横田『中東諸国におけるイスラームと民主主義』、6 ページ。
(26) 例えば、次を参照。アフマド・ヤースィーン(横田貴之訳)「パレスチナの地に生まれて—アフマド・ヤースィーンの自分史から」、青木保ほか編『歴史—アジアの作られかた、作りかた』、岩波書店、2003 年、149— 161 ページ。


日本国際問題研究所研究員

yokota@jiia.or.jp

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