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神道の始まりから現代までの歴史がついに分かるnote!!ヽ(`Д´)ノプンプ

15859文字

1.701年大化の改新、大宝律令:神祇官と太政官

神祇官は大化の改新・大宝令以後、日本の律令制で設けられた官庁。唐名は大常寺。国家最高行政機関(律令制の司法・行政・立法)の太政官よりも上位の官庁で、その神祇官のTOPの役職の名が神祇伯という。

朝廷では祭祀を行う神祇官が最上位の官庁だった。また太政官は、唐名から尚書省都省とも呼ばれた。

2.壮大な詐欺:古事記(712年)日本書紀(720年)

天皇・朝廷は、これまでのこの島国の歴史をすべて消し去り、自分たちに都合の良い創作童話を歴史の史実とした。この宗教を使う歴史修正詐欺統治法は、唐の武則天に学んだ。唐では、武則天を王とする創作童話の仏教経典で詐欺統治に成功していた。

NHKがバラシ始めているのが怖い。リンク

3.鎌倉幕府で朝廷は衰退していると思うが、調べはこれから。

この後に復活している理由がわからない。

4.応仁の乱(1467~77)後、官司(官庁および官人組織)自体が衰退した

『応仁の乱』とは京都を焼け野原にした出来事、この出来事をきっかけに、日本は戦国時代へと突入した。◉官人=役人


5.江戸時代

大宝律令の律令制は形の上では生き続けていたから、幕府は朝廷に小大名なみの領地と公家領を増進し、幕府の援助で祭祀、行事を再興して、天皇の権威を強化した。しかし、幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は、名目的な作暦、改元、叙位任官の権限を保持していたにすぎなかった・・・・なぜ、皆殺しにしておかかったんだ!


6.江戸時代:復古神道(古神道)プロパガンダ

江戸時代後期、古事記を元にした王政復古プロパガンダの為の似非妄学問、この国学の妄想により尊皇思想が広がっていった。天照が〜神武天皇が〜〜日本を作った神だから〜その子孫の天皇が王であり神なんだぁ〜〜という自作自演のアレ。

国学の四大詐欺師人

国学神道とは言わず復古神道と述べる理由は、儒教や仏教などの渡来以前の、古代のわが国の本来の純粋な精神である、戻るんだぁ〜とダマすことが狙いだからである。内容から国学神道と言った方が正しい。

中国の王朝において宗教とは、人々を自発的な服従へと従わせるため、王朝が作り支援するものであり、数多くある中国の宗教も神道と同じく国家が作った詐欺!日本人は江戸時代から文盲が極端に少なくなまじ文字が読めるのを利用して、ユダヤ王政復古クーデター明治維新に繋がった。

武力による力の支配は短期的には有効だが、必ず民は反逆し長い間の支配は無理で、宗教で宥めボケ頭にすることは絶対に必要なのだ。

7.無知な若者が朝廷の手下の頭の良い詐欺師に騙されて明治維新を起こしてしまった!

8.大政奉還:慶応3年10月14日(1867年11月9日)

「唐門」越しに二の丸御殿を望む

大政奉還:京都の日本の二条城で第15代将軍・徳川慶喜が明治天皇へ政権を返し天皇が受け取った。侍たちが暴れる前は天皇・朝廷が政権を持っていたのは本当だし、将軍は朝廷から統治を任された征夷大将軍だから奉還と言う名となる。

9.王政復古の大号令:
慶応3年12月9日(1868年1月3日)

京都御所の御学問所

京都御所の御学問所で明治天皇から「王政復古の大号令」が出た。これは江戸幕府廃止、天皇親政・公議政治の名で、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するというもの。

親政とは、君主の天皇自身が政治を行う政治形態のこと。

公議政体論
幕末から明治初期にかけての「議会制度を導入して合意を形成し日本国家の意思決定、および統一を図ろうとする政治思想で、倒幕派にとっては明治維新後の政治の理想像の1つとして唱えられたもの・・・・。
これは今の議会制民主主義のことだね・・・・多くの倒幕派は悪党ではなく、ウブで騙されたんじゃないの?(^_^;)

もともとは、王政復古の大号令を「王政復古、国威挽回」また根本的大改造なので「百事御一新」と宣伝していた。この「御一新」が「維新」という語になり、のち「王政維新」と述べた。革命初期の公文書には、「政体復古・天下一新・朝政一新」という表記がなされていた。

⭕️「明治維新」との言葉は1890年に大日本国憲法が公布される数年前に作られた。(^_^;) 

開国だの文明開化だのの、良いことが起きたとするプロパガンダのために、明治維新ってカッコ良さげな名にしたんだろね。(^_^;)


徳川幕府による武家政治の終了にともない、天皇を頂点とする政治に戻すという宣言がなされた。大政奉還のあとも、権力を握ったまま政治に関与できると考えた徳川氏。しかし倒幕派の公家・岩倉具視や長州藩・薩摩藩などはこれに反発し、幕府は廃止、『天皇のもとで有力な藩が共同で政治を行う政治を行うと宣言した』。

岩倉具視は公家

公家:朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。

王政復古の大号令で新政権は、江戸幕府を廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職をおくことなどを宣言した。当然幕府側は反発し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)へと発展した。

10.1868年10月23日(明治元年9月8日)明治改元

明治元年(慶応4年)(1868)9月8日、明治天皇から明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とすることになった。歴の変更の話はややっこしいんだ。理解していないから聞かないでくれ。

11.戊辰戦争:慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉 - 明治2年〈1869年〉

旧幕府軍と新政府軍の対立は戦争に発展し、16ヶ月に及ぶ戦闘の結果、新政府軍が勝利した。

新政府からの処遇に不満を抱いた徳川慶喜は、旧幕府側の会津藩や桑名藩に出兵を命じた。神戸沖で旧幕府軍艦が薩摩藩軍艦に発砲したことが直接の原因で戦闘が開始され、京の郊外で大きな戦になった。(鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、慶喜は江戸の寛永寺に謹慎となった。江戸城は無血開城された。しかし会津藩をはじめとする東北の藩は引き続き抵抗した。会津藩が降参したあとも、榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は蝦夷地で抵抗を続けたが、最後は新政府軍に敗れた。(箱館戦争・五稜郭の戦い

12.1868年(明治1)旧暦閏4月21日:朝廷の神祇官と太政官が復活した!

1868年(明治1)閏4月21日に新政府が政体書を発表、神祇官と太政官が復活。それは、太政官と神祇官の復活は朝廷の復活ということ、明治政府の中身は復活した朝廷!!

(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御 復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上,云々〉――1868年3月13日太政官布達)。

翻訳
この度は王政復古、神武創業の始めにせられ基づく、多くの様々な事柄の御一新、祭政一致の御制度に御(それをする人に対して尊敬の意) 復、被遊候(あそばせられそろう)に付ては、先に第一に神祇官ご再興ご創立の上、うんぬん〉――1868年3月13日太政官布達)。

◉明治政府は祭政一致の理念のもとに神祇官を再興した。
◉内閣制度発足前の明治日本政府は朝廷の「太政官!」


13.廃仏毀釈1868年旧3月

明治初年、維新政府の政策に基づいて起こった仏教排斥、寺院・仏像・仏具破壊運動。1868年旧3月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると、平田派国学者の神官らが中心となって、寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去運動を起こし、隠岐では全島の仏寺を破毀して1寺も残さなかった。

天皇・朝廷得意の方便の矢!大プロパガンダフェア実施中〜〜♪( ̄▽ ̄;)

14.1869年(明治2)版籍奉還

藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還した。地方では大政奉還後も藩が土地と人民を掌握していた。新政府の明治政府は、これまでの封建制度から中央集権体制への移行をもくろみ、諸藩の土地と人民を天皇に返還させようと考えた。

まずは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が代表となって、土地と人民の天皇への返還を行った。するとそのほかの藩もそれにならった。明治政府は藩主を知藩事(ちはんじ)に任命した。
ここら辺は非常に臭い。吉備団子の手口をまた使ったか?( ̄▽ ̄;)
さらに、これに続いて廃藩置県を実施した。

15.内閣制度発足前の明治日本政府「太政官」の実質的・事実上の首相:大久保利通:明治2年7月22日(1869年8月29日)

太政官:大久保利通:明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。

16.明治3年1月3日(1870年2月3日)「大教宣布詔」

大教宣布詔とは、明治3年1月3日(1870年2月3日)に明治天皇の名により出された、「治教を明らかにして惟神の道(かんながら)を宣揚すべし」(神道)という詔書。惟神之大道➡️『唯一神の大道!』(;´Д`A

惟神の大道を宣揚し給ふの詔
(うやうや)しく惟みるに、天神·天祖極に立ちを垂れ列皇承け之を繼ぎ之を述べたまへり。祭政一致、億兆同心、治敎上に明芒して、風俗下に美はし。而るに中世以降、時に汙隆(※註一)有り、道に顯晦(※註二)有り、今や天運循環し、百度惟れ新なり。宜しく治敎を明かにし、以て惟神の大道を宣揚すべきなり。因りて新に宣教使を命じ、天下に布敎せしむ。汝群臣衆庶其れ斯の旨を體せよ。明治三年正月三日(太政官日誌 原文は漢文なり)

惟一神の大道を広く告げしらせて、お与えになる天皇の命令書
我、天皇、うやうやしく推測し考えるに、天の神・天皇の祖先きわめに立ち支配を垂れ、代々のスメラの姿を受け、これを継ぎ、これを述べ与えたり。祭政一致、億兆同心、治める教え上に明らかに刃物の鉾先をし、風俗を下ろし美しく。
しかるに中世以降、時に汙隆穢らわしき者が栄え)有り、道に顯晦現れることと隠れること)有り、今や天運循環し、数が多くこれ新しいなり。好ましく治め教化を明かにし、もって惟一神の大道を宣揚広く告げしらせ)すべきなり。よって新に宣教使を命じ、天下に布敎させよ。汝、多くの臣下、大勢の庶民 それ、かく旨を身に付け、自分のものとし本性とさせよ。
明治三年正月三日(太政官日誌 原文は漢文です)

⭕️穢らわしきものが栄える有り=侍/武士。
⭕️現れることと隠れること有り=なので、天皇/朝廷はピンチになり世から隠れたり出たりした。

天皇の言葉に現れる治敎の「敎」の漢字の意味
教=① 神や上位の人がさとし、導くこと。教訓。戒め。
※古事記(712)上「そのウサギ、沢山の神の教に従いてひれ伏す。」
漢字「教」は体罰で教えから成り立った壮絶な漢字。(子供の頭をシメる)

17.廃藩置県1871年(明治4)7月14日

大政奉還後も、地方では藩の大名がそのまま知藩事として権力を握っていた。中身は朝廷の明治政府これまでの制度から中央集権体制への移行をもくろみ、これまでの全ての藩を廃止して、代わりに府と県を置くことにした。知藩事は失職し、東京への移住が命じられた。代わりに府県には府知事・県令が派遣された。


18.1871年(明治4)8月8日:太政官の下に神祇省「宣教使」

明治政府は祭政一致の理念のもとに神祇官を再興したが、明治天皇の「大教宣布詔」命により、1871年(明治4)8月8日これを格下げして太政官の下に神祇省を置いた。キリスト教の宣教師と同じ意味の宣教にあたる「宣教使」が新たに置かれ、神道国教化政策が展開された。宣教師の例

宣教師の例

しかし、宣揚(広く世の中に広める)は、廃仏毀釈による混乱や、まだ地方政府としての機能が残っていた藩の儒教・仏教重視との対立、「神祇省」内部の国学者たちの路線の対立、欧米からのキリスト教弾圧停止要求などの問題も重なって、神道国教化の動きは不振が続いた。

神祇省の内部に、明治維新のためのプロパガンダエセ学問、復古神道の国学者達がいるわけだ。有名な国学者たちの弟子の世代だけど。

神祇官の宣教使次官:福羽美静

初め藩校養老館で岡熊臣(国学者)に学び、京都に上って大国隆正(国学者に)、さらに江戸で平田銕胤について皇国学を修業した。

文久2(1862)年、藩命により上京、諸藩の尊王の有志と交わって情報収集に奔走した。明治1(1868)年、神祇事務局権判事となり、また明治天皇に『古事記』を進講した。以後、制度寮、神祇官、教部省、文部省などに勤める。元老院議官、貴族院議員などを歴任。

⭕️ 進講=明治天皇の前で古事記を講義をしたということ・・・!?(・・;)


宣教使初代長官:中山忠能(真ん中)

中御門経          中山忠能         正親町三条実愛

明治天皇の外祖父。慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜 追討追いかけて討ちとること)の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることに尽力した。その後も「岩倉具視」らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。


19.1872年(明治5年)「太政官布告第342号」により「神武天皇即位紀元」制定される

皇紀、皇暦、神武暦、神武紀元などともいわれる。このつぎの年、

20.1873年(明治6年)に、2月11日を「紀元節」の名称で日本国が建国した日として休日と定めた

国立図書館のサイト漁っても両方とも日にちまでは分からず、なんて国だ!
(#・∀・)

クソ神話!結構本当だけど!( ̄▽ ̄;)

けっきょく邪悪な神武天皇が侵略し大和国を建国、つぎ、唐の武則天
(天照)が日本国と改名したのが我々の国なのか。( ̄▽ ̄;)

21.1873年(明治6)1月10日徴兵令発布

「富国強兵」のスローガンのもと、近代的な軍隊が作られた。この実現のために、これまでの武士のみによる戦闘ではなく、四民平等による国民皆兵の制度の整備が急務とされた。徴兵令では、抽選で選ばれた満20歳の男子が3年の兵役に従事することを定めた。しかし家の主人や家の後継ぎは徴兵を免除されるなど、徴兵免除の条件が多かったため、徴兵を逃れようと養子縁組をする者が続出した。

徴兵令に反対する農民たちによる一揆が起きた(血税一揆)。

神武天皇は国民に戦争を行わせる為に重要な神なんだと思う。


22.1873年(明治6)地租改正

政府は国庫収入を安定させるために、土地の所有者に地券を交付して土地の私的所有権を確立させ、金銭で納税させるようにした。

これまで租税は、土地の石高に応じて年貢を耕作者に課していた。それゆえに年によって収穫量が異なるため、政府の収入は安定しなかった。これを正し、安定収入を見込める税制を確立する必要がでてきた。政府は土地の所有者に地券を交付し、土地の所有権を認めた。また、税率を地価の3%とし、土地の所有者が金銭での納税の義務を負うとする地租改正法を制定した。

これにより政府の収入は安定したが、地租改正に反対する一揆が発生した。

23.結局、いきなりつくった国家の新興カルト宗教、神道の布教は上手くいかなかった・・・

宣教使官員の少なさや教義の未確立、あるいは府藩県宣教掛の能力不足、消極性もあって、宣教使の大教宣布運動は終始不振で、かろうじてキリスト教徒が多い長崎県に宣教使を派遣して宣布を行ったにとどまった。

外圧でキリスト教を認めただけで、天皇以外のイエスを天皇のように崇拝させるキリスト教は不味かったんだね。( ;´Д`)

なので・・・・

24.明治5年3月14日(1872年4月21日)
「教部省」設置

この手はわずか半年で観念し、より大教宣布を強化するために、新たに「教部省」を設置した。神祇官が行う宮中祭祀を切り離し、神祇官の匂いを消した。同時に、大教宣布の路線の再建・強化を目指した「大教院」が設置されることとなる。

神祇官が行う宮中祭祀ってこの手のかね?

25.「大教院」とは
「神道プロパガンダ工作員養成道場」

神道による国民思想の統一を目ざす明治政府の大教宣布運動の中央機関で、教導職の研修の道場。東京芝の増上寺内に設立、地方には中・小教院を置いて、神道の神主、仏教の坊主、合同での神道国教の布教を計画した。

プロパガンダ道場「大教院」はココ!(^_^;)

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