アヘン商人の歴史ダイジェスト
6073文字:ヘブライの館2さんから
■■第1章:「アヘン戦争」と「サッスーン財閥」
●「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい麻薬戦争だったことが分かる。
「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされた。」
●この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。
●「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。
1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。
1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国でアヘンを売り、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。彼は「アヘン王」と呼ばれた。
1773~1842年の「三角貿易」体制
イギリスはアジアとの貿易を行うため、1600年に「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。
●やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した1840年「アヘン戦争」が勃発。
敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国は中国侵略の足がかりを作ることになる。
その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。
■■第2章:上海に築かれたユダヤ人社会
●アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。
「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。
●1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。
この家系図の登場人物は、全員がユダヤ人である。二代目のアルバート・サッスーンの息子エドワード・サッスーンの妻は、アリーン・ロスチャイルドである。香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はないと言ってよかった。」
●上海のユダヤ人富豪は、サッスーンを中心として幾つかあった。
◆サー・エレー・カドーリ
香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。
ローラ夫人が亡くなると、長崎出身の日本人女性(松田おけい)が
後妻としてカドーリ家に入った(1896年)。
◆サイラス・ハードン
イラク(バグダッド)出身の英国籍ユダヤ人。
当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼一人の所有であった。
◆ルビー・アブラハム
ビクター・サッスーンの伯父の長男。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。
父親は上海ユダヤ教徒の治安判事を務め、英国総領事館法廷でユダヤ式判決を勝ち取り、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。
◆エリス・ハイム
ルビー・アブラハムの夫人の兄。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。
「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍。サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。
■■第3章:「ジャーディン・マセソン商会」とトーマス・グラバーの暗躍
●中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。
この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。
設立当初の主な業務はアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。
●この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られる。
横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。
トーマス・グラバーは、1859年にイギリスから上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐の討幕派の志士を支援し、武器や弾薬を販売した。
幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡しに関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。
彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや
長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。
1908年にグラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。
■■第4章:上海のユダヤ難民を保護した日本政府
■■第5章:アジア地区ゲシュタポ司令官ヨーゼフ・マイジンガーの登場
⭕️ワシ:ブログ主はナチスヒトラー正義と気づいておらず、ユダヤ人を助けた美談に騙され中。ユダヤの騙し方を学ぶには良いが今回はカット。
■■追加情報 3:台湾における日本のアヘン政策について
●19世紀末、「日清戦争」に敗北した清国は下関条約により、台湾及び澎湖諸島を日本に割譲したが、台湾における日本のアヘン政策については、次のような情報がある。
参考までに紹介しておきたい。
「日清戦争後の下関の談判において、清国の全権李鴻章は、『アヘンには貴国もきっと手を焼きますぞ』と捨てぜりふを残していったそうな。当時16万9千人もいたアヘン中毒患者の問題を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。
『わが国に伝播したらなんとする。吸引するものは厳罰に処すべし。輸入や販売を行う者についても同様だ。従わないものは台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ。』
このような『厳禁説』がさかんに唱えられたが、後藤新平は、『これでは各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわからない』と反対して、『漸禁説』をとった。
『まず中毒にかかっているものだけに免許を与え、特許店舗でのみ吸引を認める。新たな吸引者は絶対に認めない。アヘンは政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の資金に充当する。』
アヘンを政府の専売とするという破天荒なアイデアであったが、後藤新平の読み通り、大きな混乱もなしに、アヘン中毒患者は次第に漸減して、日本敗戦時には皆無となっていた。
という話は嘘で。
後藤 新平(1857年7月24日〈安政4年6月4日〉- 1929年〈昭和4年〉4月13日)は、日本の官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位、勲一等旭日桐花大綬章、伯爵。
台湾総督府民政長官。南満洲鉄道(満鉄)初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(後の日本放送協会➡︎NHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の南方・大陸進出を支えた。
後藤新平家は、藤原北家魚名流利仁流後藤氏の末裔と称する武家・平民・華族だった日本の家。封建時代には伊達家の重臣留守家(陸奥国水沢領主)の家臣だった家系だが、近代に政治家・官僚・医師として活躍した後藤新平を出し、その勲功により華族の伯爵家に列せられた。
フリーメイソンリーとの関係
文化人類学者の綾部恒雄によれば、後藤新平はフリーメイソンであった。フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、1892年の第5回万国赤十字会議に日本赤十字社委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている。ボーイスカウト運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとの繋がりからであろうとしている。
大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。
植民地におけるアヘン対策
アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。
1877年にはイギリス商人による(日本への)アヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったが、治外法権を行使されてハートレーは無罪となった。イギリス領事館から逆に法制度の未整備を指摘された明治政府は、1879年(明治12年)5月1日に薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府”国内外”におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は政府に利益をもたらし、日清戦争の戦費となった。
日清戦争後、下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした日本は、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は伊藤博文に日本によるアヘン専売を建議し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。
同令においては、すでに常用者である台湾人は登録のうえアヘン購入を許可されたが、日本人、および中毒者でない台湾人の医療目的以外のアヘン使用は禁止された。1898年の阿片令では、台湾総督府専売局による専売が始まった。後藤は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させる一方、内地では、二反長音蔵などのケシ栽培を積極的に後援し、1935年頃には日本のアヘン年間生産量は15tに達した。台湾総督府は、日本産アヘンの台湾への輸出・販売により、莫大な利益を得た。
昭和に入ると日本は朝鮮や満洲の熱河省、遼寧省、内モンゴルなどでケシ栽培を奨励し、第二次世界大戦中は満州産アヘンに高額の税をかけ戦費を調達した。
中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。
台湾総督府専売局
専売局は台湾台北市南昌街に位置する台湾の国定史跡。ルネッサンス調の赤レンガ建築であり、建築された1913年から2000年にかけて台湾の専売事業の中枢としての役割を担っていた。
日本統治時代の大正2年(1913年)に着工され、大正11年(1922年)にアヘン、食塩、樟脳、タバコ、酒、マッチ、度量衡儀器、石油を取扱う台湾総督府専売局庁舎として完成し、台湾における専売事業の監督庁舎として機能していた。
この年表は良いかも知れない。(^_^;)