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デマの原爆地上起爆説の戦時中日本が原爆を開発し実験に成功した話の斜め上のオチまとめ

1342文字 投げ銭制

原爆地上起爆説を潰しておくため、デマ陰謀論はこんなものだと広めるためにまとめておく。この新聞記事も嘘か本当か分からないのだが、日本のTwitter地上起爆説は元ネタの新聞の内容とも違う。


戦時中日本が原爆を開発し実験に成功した話は、

新聞 1946年 アトランタ・コンスティテューション、

ライター:デイヴィッド・スネル.

偽名:若林哲夫 少佐(Capt. Tsetusuo Wakabayashi)に聞いた話。

注:広島の原爆1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分

トランタ・コンスティテューションのライター:デイヴィッド・スネルの報道記事の内容は、広島の原爆の4日後の、
朝鮮半島の興南(Konan)
1945年8月10日に成功
という話。

原爆は神風特攻機で連合軍の艦船に投下されることになっていた。

興南(Konan)区域の原爆工場

興南区域(フンナムくいき)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市に属する区域。咸興湾に面した港湾都市・化学工業都市である。

   咸興市 位置       咸興市 UP       興南区域   

隣接する咸興市との合併、興南市としての分離を繰り返しており、近年では2001~2005年の間は「興南市」であった。◉(Hammung)咸興市

鵲島洞付近の海岸

歴史

リンク
朝鮮窒素肥料 興南工場

日本統治時代の1920年代、蓋馬高原水力発電長津湖赴戦湖)による電源開発が行われ、それらの電力をもとに興南に工業地帯が建設された。中心となったのは朝鮮窒素肥料(1928年工場建設)などの日窒コンツェルンであり、硫安などの化学工業地帯として工業化が進められた。1944年12月、興南府となった。

国連軍の撤退に際し、500トンの爆薬で爆破される興南港港湾施設(1950年12月24日)

1945年、大日本帝国の敗戦後、多くの日本人が興南から日本に引き揚げた。朝鮮戦争の際には北進した韓国軍・国連軍が一時占領したが、1950年12月に中国義勇軍が参戦すると、中国・北朝鮮国境地帯から退却したアメリカ軍をはじめとする国連軍10万人が、一般市民10万人とともに興南の港からアメリカ海軍の艦船により海路南へ脱出する興南撤収作戦(朝鮮語版)が行われた。興南は国連軍の艦砲射撃と空爆により破壊されたが、後にソ連・東ドイツなどの東側諸国の援助もあり復興し、発展した。

2.8ビナロン連合企業所(2010年8月撮影)
興南の化学肥料コンビナート(2010年8月撮影)


咸興(Hammung)市

咸興市(ハムンし、ハムフンし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の道都。李氏朝鮮発祥の地である。平壌とともに冷麺の本場として有名で、盛岡冷麺の創始者である在日1世の青木輝人(朝鮮名ヤン・ヨンチョル:양용철)も咸興出身である。

青木輝人さんの写真がある。


咸興市に属する沿海部の興南区域は、化学工業を中心とする工業都市・港湾都市である。

人口は70万9730人(1993年)、87万4000人(2005年)。

地理

日本海に面する咸興平野に位置する。城川江が市内を貫通する。

北の蓋馬高原への交通の要地であり、農産物の集散地となっている。咸興湾に面した興南には巨大な港がある。

おわり

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