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 前回の記事の日付を見て驚いた。もう5ヶ月以上経っている。

 この間の私の成長といえば、タイピングが速くなったことくらいだ。ドがつくほどの機械オンチである私は大学も卒業が近い年齢だというのに、まず両手の人差し指をキーボードの上で泳がせてからそろそろとひと文字ずつボタンを押すような有様であった。おそらくレポートなどに人の5倍は時間をかけていたと思う。もちろんスマートフォンのフリック入力もできない。しかしここ数ヶ月はメールを打つ機会が格段に増えたため、否が応でもタイピングが上達した。この文章もパソコンで打っているが、スピードが以前と比べものにならない。何事も訓練が大切であることを改めて実感している。

 最近また価値観が少し変わり始めたので、ここに記録しておこうと思った。その変化は、出産・育児についてである。

 ご存知の通り私は、自分の人生をあまり生きやすいとは感じてこなかった。ここに書いても仕方がないので省略するが、家庭や養育歴に問題があり、自分は真っ当な人間には成長しなかったと感じている。かといって失敗作かといわれるとそうではないと思うのだが(そもそも成功作とはなんだろう?)、絶望や苦痛、混沌や苦悶が実体験として多かった。もちろん人には人の地獄があるので、他人と比べてそのような体験が自分の方が多かっただとか、そんなことは思っていない。あくまでも私は、相対的にではなく絶対的な観点から見て、そう感じているのだ。

 そのような人間は自ずと反出生主義に行きつく。私もそうだった。要するに、人は必ず不可侵な地獄を内包して生きていて、子供を産むということは、この世に新たな地獄をまた一つ、つくり出してしまうことになる。そのようなことの責任は私には負えない。負の連鎖は私の代で断ち切らなくてはならない。少し前までは本気でそう思っていた。

 しかし最近はその思考が少しずつ変わってきている。私の思考を変えてしまった原因は、身近な人間の子供の成長の目撃と、制作した漫画への反響の2つだと思う。

 20代半ばにもなると、先輩など、身近にいる知り合いの婚約・結婚・出産報告を耳にすることが増えてきた。必然的に生まれて間もない赤子や未就園児などとの間接的な関わりが増えた訳だが、子供の力というのは本当に凄い。なんと形容するべきか分からないのだが、子供というのは存在そのものが光なのだ。その他適切だと感じる言葉は、希望、祈り、可能性…とにかくそのプラスのパワーに圧倒されてしまう。子供の周りにいる人間は皆笑顔になるし、普段は協調性など皆無に等しいくせに、一致団結して守ろうとしてしまう。時には、子供の言動に大の大人が畏怖の念さえ抱いてしまう(本題からは少し逸れるが、私は5歳までの人間は神に近い存在だと思っている。人間社会の常識が一切なく無垢で、気まぐれで平気に虫などを殺すからだ。神というのは、きっともののけ姫に出てくるシシガミのように、理由なく生き物を生かしたり殺したりすると私は思う)。そのような存在の恐るべきスピードの成長を目の当たりにすると、私はどうしようもなく、救われたような気持ちになるのだ。ああ、私が死んだ後も、こんなに凄い存在が生きてくれる。きっと世界は私がいる今より、彼らがいる未来の方が良いものになる。そんな予感に包まれる。単なる錯覚かもしれない。しかし、錯覚だろうが予感だろうが、この感覚は生命として正しいような気がするのだ。これが、私の価値観を変えるに至った原因のひとつ目である。

 もうひとつの原因は漫画への反響だ。昨年から描き始めた漫画に、本当にありがたいことに様々な感想が寄せられた。出会わなかったはずの数多くの人たちの不可侵な孤独と、私の孤独との交流が、作品を通して可能になった。長い間ずっと私は、誰かの内包する孤独に触れたかったのだ。手で触れて、私だけではないと安心したかった。その願いが叶えられてしまったのだ。それだけではない。私の描いたものによって、救われたと言ってくれる人がいた。それも何人も。その言葉に、私はどれほど救われたか分からない。その経験から私は、もしかして人は希望のようなものを生み出すこともできるのではないか、と思った。孤独も生成するが、それと同等か、もしくはそれ以上の希望を。私は全ての人間が日々、そのような希望を生み出していると思っている。生み出していない人間など過去にも未来にも存在しない。例えばコンビニのレジで、店員に言った「ありがとう」が、クレーマーによって疲れ果てた店員の救いになったかもしれない。昔拾った落し物が、その後無事に持ち主の元に帰ったかもしれない。何気なく行った行動は、必ず誰かの救いになっている。自己完結する行動などない。私はそのことを、読者の方々に教えてもらった。

 また、少し話は変わるが、私の描いたものを見ながら子供と一緒にお菓子を作ったという報告も寄せられていて、そのことが心の底から嬉しかった。どうか、子供たちは健やかに成長して欲しい。私よりずっと人生を謳歌してほしい。もし苦しくなったら私の描いたものを思い出して、足がかりにしてほしい。そのために、私は自身の苦悶や葛藤の突破口を、のたうち回りながら描いているのだ。そういう風に漫画を使ってくれたなら、私は本当にこの世に生まれてきて良かったと思う。長くなったが、人間個々に希望を生み出す能力がある可能性を感じたことが、価値観を変えるに至った2つ目の原因である。

 以上の理由から、最近は子供を産んでも良いのではないか?というような考えが私の中に芽生えてきている。なんだかもの凄く遠回りをして、至極当たり前の結論に至ったような気がする。きっと若くして子供を産んでいる人は、こんなことをゴチャゴチャ考えなくても知っている。でも良いのだ。私は人類の大多数が取る選択肢に、自分なりに辿り着けたことが嬉しいのだ。

 とは言え、同じく反出生主義者の親友Kにこのことを話してみたら、見事に一蹴されてしまった。「貴方は自分の親に自分の正しい子育てを見せつける、要するに親への復讐のために子供を使おうとしていないか。子供は道具じゃない。そのような気持ちがあるのなら私は止める」と言われた。親友Kは保育園の先生を務めているし、洞察力も相当鋭い。確かに、私としては痛いところを突かれたと思う。自分では相当気をつけていたつもりだが、良いことがあって少し調子に乗ってしまったのかもしれない。全てが上手く行くんじゃないか、みたいな気持ちが少なからずあった。私には取り掛からなければならない問題がまだまだ残されているし、そのことを思い出させてくれた彼女には感謝している(いずれ親友Kのことも漫画に描こうと思う)。背筋が伸びた気持ちだ。

 最近は以前よりペースが頻繁ではないが、やはり時たまうつは来る。忘れかけていたが、私はうつを持っているのだ。そのことはきちんと受け止め続けたい。しかし逆に言えば、忘れられるほど最近は小さくなってきている。少しづつではあるが、着実に快方に向かっているのだ。人間は同じことを繰り返すが、少しづつ少しづつ、快方に向かう。決してコピーではない。それは一個人の繰り返すうつにも、人類の子孫繁栄にも、きっと当てはまるのだ。私は、そう信じたいと、心の底から思う。

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