仏教、クリシュナムルティ、OSHO

 最近、哲学が虚しく感じてきて、宗教的な本ばかり読んでいる。ウィトゲンシュタインとニーチェの「哲学のお終い」にしか興味がなくなった。池田晶子と大峯顯の対談で、二人が「ウィトゲンシュタインは完全に「それ」に触れている」と言っていたが、僕もそう思う。言語で言語の限界を示そうとする行為は、それ自体が祈りのようなものだと思う。言語の限界を画定したら、あとは遊ぶか祈るしかない。
 ウィトゲンシュタインはインドに行こうとしたけど友人に止められたって聞いたことあるけど本当だろうか?言語で戯論を寂滅させるのって龍樹そっくりでカッコイイ。黒崎というウィトゲンシュタインの研究者が龍樹の本を出していたがそういうことなんだろうか。

 禅は非言語的なので置いといて、釈迦もクリシュナムルティもOSHOも「思考を落としなさい」と言っている。仏典の解釈があるので一概には言えないが、チャルーン・サティやシュエウーミン系の瞑想はそうだと思う。「気づきなさい」「理解しなさい」「観察しなさい」とも言う。

 「アイデンティティ」とか「イメージ」って無意識にある。それに物凄く執着している。「哲学書を読んでいる」「引きこもり」「親不孝」「無能」。人間はセルフイメージに生きている。セルフイメージは「思考」と「感情」の混合で出来ていて、普通に生きているとどんどん膨らんでいく。型どおりにしか生きられなくなる。自分の思考や感情を「注意深く」観ることによって、イメージを解体することができる。ただ、物凄い抵抗にあう。僕の場合「哲学が好き」とか「探究者」とか「仏教徒」とかのアイデンティティを落としたら何が残るんだと、凄く怖くなった。誰でもない人になってしまうって凄い怖い。

 イメージとか思考を見抜くと、過去が全部落ちる。テーラワーダの長老はこう書いている。

一旦、このレベルの理解が確立されると、心はいつでも「これは単なる心」と捉えるようになります。そして、その理解はやがて「心はただ生じてくるに過ぎない」「単なる出来事で意味なんかない」と深まっていき、そしてついには「心は生成してくる(jāti)」という更なる上の理解に達することになります。そして、この「生成してくる」という性質を観てしまうと、今度は「全てはいつでも新しい」「全ての瞬間は新しい」「古いというものはないい」ということがわかってくるでしょう。全ての知覚するものは「今」で、知覚するものは全てそれが初体験だと。そしてここまで来ると、人生の問題の原因もわかってくることになります。智慧はその原因となる概念やら、分別・妄想やらがただ去来しているだけにすぎないことを観察するようになります。そうなったら、もうこの心身について「誰のものだ」という考えが浮かんでくることもなくなり、もはや「私」という概念を当てはめることもなくなってしまうのです。

ウ・テジャニヤ長老

 全ての「今の知覚」がフレッシュな物に見える。「またいつもの散歩道だ」とか思わない。「またこの人との会話か」とか思わない。ずっと新しい。生ってずっと新しいから、言語化できないんだ。「い・ま」と言った瞬間に別の今になっている。

 スッタニパータという最古の経典に「非二元」について書かれてて驚いた。テーラワーダも禅もチベット仏教もクリシュナムルティもOSHOも非二元だと思う。
 心理学とか哲学が好きな人は、クリシュナムルティ。クールなのが好きな人は禅。細かく分析されている教義が好きな人はテーラワーダ。教義が豊富かつ仏教文化が好きな人はチベット仏教。なんでもアリのOSHO。みたいな感じか。個人的には全部好きだ。

 昨日お坊さんに電話をかけて相談したら「自分も仏教の教義をどうやったら上手く伝えられるかということにかまけて、修行がおろそかになった時期があった。修行するときは修行したほうがいい」と言われた。
 哲学と瞑想の間で悩み中だな…。

勉強したいのでお願いします