同じ本を二回読む 法華経

 初めて付き合った彼女に「この本は子供の時に一度読んで、大人になってもう一度読んでほしい」と言われ、星の王子さまを渡された。十五歳の僕には様々な星の住人やキツネや薔薇が何を意味しているのか分からなかったが、今ならよく分かる。

 白隠禅師は若い頃に法華経を読んで「こんなおとぎ話の何がありがたいんだ」と投げ捨てたらしい。しかし、晩年にもう一度読むと、あまりの有り難さに涙したという。

 僕も、人生で二度目の法華経体験をした。一度目は「なんじゃこりゃ」と思ったけれど、今読むと感動した。凄い。
 不軽菩薩という菩薩が出てくる。この菩薩は「あなたもブッダになれるんですよ」といろんな人に説いて回るが「そんなわけない、仏じゃないお前に何が分かるんだ」と様々な人に馬鹿にされる。経典の学習もせずに、ただただ「あなたも仏になれる」と歩いて回る。そのうちにみすぼらしく死にかけてしまうんだけど「無」から法華経が聞こえてきて、寿命が延びて、法華経を説く仏になる。植木雅俊という仏教学者は「不軽菩薩の行為自体が「法華経」であったので、真理を自得した」と解釈していた。法華経というのはこのお経のことでもあるし「宇宙の真理」という二つ目の意味もある。
 入れ子構造になってて少し分かりづらいが「法華経の教えを聞いたことがなくても、全ての人を尊重する態度を取っていれば、法華経を行じていることになる」ということらしい。例えば、字も読めないアフリカの子供が不軽菩薩である可能性もある。仏教だとか法華経だとか、そういう名称を知らなくても、他人を一切軽んずることがなければ、法華経の精神に適っている。

 物凄い自戒なのだけれど、他人を軽んずるのはよくない。釈尊が大悟した時に「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。」と言ったように、本来、衆生は全て解脱している。坐禅によって解脱することができれば、そのことがハッキリするらしい。

 しずかちゃんのパパが「他人の悲しみを悲しみ、他人の喜びを喜ぶことが人間にとって一番大事」だと言っていたが、他人を軽んじないというのはそういうことだと思う。どれだけ馬鹿にされても、自分は相手を尊重する。宮沢賢治っぽさがある。

 なんみょーほうれんげきょー的な宗派にはあまりシンパシーを感じることがなかったが、法華経自体は素晴らしいと思った。「全ての人に仏性がある」ということを、手を替え品を替え何度も説いている。「仏になる」ということにあまりピンと来ない人もいるだろうが、自己肯定感が叫ばれる時代に必要な教えと思う

勉強したいのでお願いします