三つの快楽主義

 僕は快楽が好きだ。どうすれば一番快楽が得られるだろう?

 最近、中島らものアマニタ・パンセリナというエッセイを読んだ。全編ドラッグの話で、著者の実体験も書かれているから凄く面白かった。ドラッグに関わる人物もたくさん出てくるが、ドラッグの哲学が快楽主義であることは否定できないだろう。「うるせえ、人間やめてえからドラッグやってんだよ」というセリフが生々しかった。この「この瞬間の快楽だけ」を求める快楽主義がある。ドーパミンについての新書で読んだが、ドーパミンというのはシーソーのようになっていて、「快楽」があれば必ず「渇望」という苦しみが襲ってくるらしい。セックスでも食べ物でもギャンブルでも同じだろう。気持ち良いものには、必ず「渇望」という苦しみが伴う。

 二つ目はエピクロスの快楽主義だ。エピクロスは「心が穏やか」なのを快楽と定義し、セックスを禁止している。食べ物についても「欲望を煽るから」という理由で粗食を推奨している。上記の一つ目の快楽主義は、苦痛とセットになっているという点で、あまり賢くない。「慎む」ということが逆に「快楽=穏やか」になるという面白い快楽主義だ。

 三つめは仏教だ。仏教は「中道」を唱える。苦痛にも快楽にも偏らない。釈迦は、出家前はいい飯を食っていい女を抱いて快楽三昧だったが、飽き足りないものを感じて、苦行をした。苦行もあんまりよくなかったので、菩提樹の下で瞑想をした。その時に「中道」を悟った。中道というのは、快にも苦にも「執着しない」ということである。快や苦を自ら求めることはしないし、生きている上で快や苦が生じても放っておく。なぜなら無常だから。快苦を放っておくことで、「動じない心」が手に入る。

 個人的には、エピクロスか、仏教の快楽主義が良いと思う。気持ち良いものがあると「もっと欲しい!」という苦しみが必ずわいてくる。それを「考慮」するエピクロス主義か、瞑想で超越する仏教、どちらかを選ばなければ、快楽と苦しみを輪廻する畜生になってしまう

 

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