オウム真理教の本を読んだ スピリチュアル

 「オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり」という本を読んだ。いろんな意味で衝撃的だった。
 この本は井上嘉浩というオウムの幹部の人生をジャーナリストが描いたもので、念入りな取材がされてあると感じた。
 僕がショッキングに感じたのは「一歩間違えれば自分も…」と読みながら絶えず考えてしまったからだ。

 井上嘉浩という人は、幼い頃から感受性が強く、生老病死のことや、「幸福」について思索していたらしい。日記や手記などが引用されるのだが「誤魔化して生きたくない」と書いてあって、僕と同じタイプの人だと思った。
 本屋で阿含宗やオウム関連の本を見つけて精神世界に興味を持ち、自己流で修行を始める。京都一の進学校に通いながら、親に出家がしたいと懇願する。

 僕がいわゆる「探究」を始めたのがこの人と同い年の16歳で、主に哲学書を読んでいた。本屋の伝統仏教のコーナーは死んでいるように見えたし、精神世界のコーナーは詐欺師のコーナーに見えた。僕が16歳の頃には「精神世界で真理探究」みたいな風潮は全くなく、そういうのは科学や哲学の仕事と思われていたと思う。主に科学だと思うが。
 そうなってしまった原因は明白で、オウムが地下鉄でサリンを撒いたからだろう。僕の生まれる1年前に事件があったので、事件自体は知らないが、スピリチュアル=詐欺、怪しい、カルト、みたいな空気感は常に感じてきた。その影響でスピリチュアルや宗教といったものに懐疑的になっていたので、当時の僕はそういったものに一切近づかなかった。ただ、時代が違えばどうなっていたか分からない。

 コロナが流行しだしてから、浄土真宗の法話がYouTubeに大量にアップロードされるようになったので、哲学に見切りをつけていた僕は仏教に惹かれていった。もともと霊的なものに興味があったんだと思う。

 洗脳されて、善意で殺人をすることがあるなんて驚愕だった。自分が加害者と似たようなメンタリティをしていたこともショックだった。

 20代前半の頃、両親に「大阪で瞑想会があるから行きたい」と言うと、結構な剣幕で止められたけど、当然だと思った。「オウムもヨガ教室から始まったんだよ」と言われた。親世代には強いトラウマがある。

 日本のスピリチュアリティはどうなって行くんだろう?精神の空白は霊的なもので潤う必要があると思うが、こんな事件のあとで宗教に近づくのは怖い。神社仏閣は人気だが、今は「癒し」としての霊性だと思う。
 最近はスピリチュアルケアという言葉を聞くようになった。ホスピスなんかで使う言葉だ。「大いなるもの」への感性は正直もうみんな死んでいると思う。全く宗教的観念のない人類がここまで生まれたのは歴史上初だ。岸本英夫という宗教学者が書いた闘病記に「自分は合理主義者だから死後の世界など絶対に考えられない」と書いていた。最後には「死は旅立ちだ」という結論に至っていた。僕はそれで納得して死ねると思えない。
 
 母親は訳の分からないまま苦しんで死んだ。「宗教が欲しかった」と言っていた。オウム事件がなければ、信仰してたのかもしれない。
 
 僕は幸いにも進行形で仏教に救われているが、仏壇もいらない、葬式もいらないと言っている人たちは、自分の親や子供が死んだ時にどうするんだろうか?癌を宣告された時にどうするんだろう。
 人生って虚しい。本質的に、全く意味がない。僕は16歳の頃からずっと、死ぬ準備をしている。仏教の救いとは、死ぬ前に死ぬこと。死ぬ前に死ねば、死ぬ人はいない。

 オウムの本を読んだら、何が正解なのか分からなくなって、心がぐちゃぐちゃになった。
 正しい呼吸をする
 

勉強したいのでお願いします