生きる意味

 小学2年生の頃、「自分は絶対に死ぬ」という観念が浮かんできて眠れなくなった。まあ、細かい個人史はどうでもいいか。
 16歳の頃に「神はいるのか」というのが大問題になり、西洋哲学を学び始めた。いなさそうだった。
 テーラワーダ仏教、浄土真宗、禅宗、20世紀スピリチュアルを4年ほどやって、瞑想や坐禅もそれなりに実践してきて、「個」という意識がなくなった。世界の中で身体の中に閉じ込められている「個」という感覚がなくなり、自分は広々とした広大な「仏性」「意識」「これ」という認識があり、アイデンティティが「この身心」から「世界全てを創造する空」に移った。「この身心」には特に変化がないが、この「存在」そのものにある「幸福」や「平和」が常に感じられる。身体が透明に感じられて、思考や感情も、身心という通路を通る一過性のものだと認識できる。今までの愛着障害のようなパターンも薄まってきて、「この身心」は平和だ。

 自分の感覚で書くと、「思考」を自分だと思い込んでいると、「意識」が思考に集中してしまって、「身体が自分である」「心が自分である」という思考を本気にしてしまう。その思考の塊である「自我」を殺すと、自我が自分の維持のために使っていた莫大な意識のエネルギーが解放されて、意識が本来の位置に戻る。

 何も変わらないっちゃ変わらない。見性体験などを読むと、世界がキラキラして見えたと書かれてあるが、本当に世界が輝いて見える。「この身心」に生きる意味とかはないんだろうが、綺麗なものを見るだけで嬉しい。盤珪さんが「親から産み付けられた不生の仏心で全て調う」と言っていたが、その通りだなあと思う。世界を包み込んでいる不生の仏心が、全ての人間の身体や感覚器官を動かしている。不生の仏心は「善」であり、何一つ欠けるものがない。
 「この身心」が生まれたことに、意味も目的もない。ただ、仏心は真で善で美だった。僕は生まれてきてよかった
 

勉強したいのでお願いします