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すべて何かのイチブってこと


B'zの「イチブトゼンブ」の歌詞がひどく心に沁みる今日この頃である。



先日まで、私は「この人と付き合いたいな」と思っていた人と連絡を取り合っていた。

たくさんの時間をかけてお互いのことを話し合う中で、次に言おうと思った言葉が、その人の口から出てきた時にひどく感動したのだ。
話し出したら止まらない、気付けば時間を忘れて話し続けていた。

その人と自分は価値観が近い、と思っていた。
私はその人にもそのことを伝えたし、向こうは自分もだと言ってくれた。


なのに、その人の過去や将来への後ろ向きなスタンス、何事にも受け身で挑戦しない生き方が徐々に見えてきて、私は失望してしまった。
「つまらん人だな」と。

そして、それまでその人と価値観が似ているように感じたのは、その人がひたすら共感してくれて、あまり自分の意見を持たない人だったからだ。

そう思ったけど、嫌いなわけではないし、パートナーとしては問題ないはずだ、人に何かを期待しすぎるのは良くない、と自分なりに耐えた時間もあった。

しかし徐々に、その人との連絡が億劫になってきてしまった。私からその人への対応がおざなりになり、その人が必死に私を繋ぎ止めようとしている様子が、更に私の不快感を募らせた。

その人が対話を望んでいたので、私は直接、私が思っていることをその人に話した。
私とその人は、今は連絡も何も取り合わなくなった。



私は友人達に、「その人と付き合う気満々だ」と高々に宣言していた。
それはもちろん、私の中での受け入れ難い、その人の一部分を知る前のことだ。

その当時、私はその人のことをこう捉えていたのかもしれない。

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数学Aで言うところの、部分集合である。

私の中にある「その人のイメージ」が完全に私のイメージする通り、過去も考え方も、全て私の考える通りのものだと本気で思っていた。

これは今文章にしていて思う。

そんなわけないやん!!!!!

そんなわけないのである。実際のところ。
実際のところはこうなっているのではないか、と私は考える。

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数学Aで言うところの、共通部分である。

共通する部分はあるが、全てが重なっているわけでない。それ以外の部分が当然の如く存在する。同様に、相手にも分かり合えない自分の部分があるということ。

「自分は自分。人は人。みんな違って、みんな良い」言葉としては知っていたのに、その感覚は私の中になかったわけである。


自分の知っていた部分だけを見て、その人そのものの人間性を勝手に想定し、勝手に満足していた。
私が好きだと思ったのは、あくまでも私の中に想定したその人であって、実際のその人ではなかったのだ。
その人のことを知っていく中で、受け入れ難い部分にまで話が及んだ時に、私の気持ちは一気に萎んでしまった。


何て自分勝手なのだろうか。
結果として、その人を傷つけることになってしまった。



今回のことを反省する中で、全ての事象は部分集合ではなく、共通部分なのではないか?という考えに至った。

例えばさっき駅ですれ違ったカップル。酔っぱらっていたのか二人とも千鳥足でフラフラしていて、通行の幅がかなり大きく、普通に邪魔だった。それに何が面白いのか大声で笑いあっているものだから、すごく目立っていた。

そのカップルを見て私は「何だあのアホカップルは」と思った。

しかし、私はあの二人のほんの一部しか知らないのだ。それなのに、そのほんの一部を見て、彼らをアホと決めつけていた。
実際の彼らは、普段は全く違う人間性を持っているのかもしれないのに。
その人間性を、私は好意的に思うかもしれないし、嫌悪するかもしれないが、それは私には知り得ないことだ。

私とそのカップルは「同じ時間に同じ駅構内ですれ違った」という点で、一つの事実を共有している。そういう意味で、少しだけ重なりを持っているのだと思う。
しかし、それは事実を共有しただけで、実際に全く同じことを感じていたわけではない。
まず、彼らはすれ違った私のことを認知すらしていない可能性も高い。

そう思った時に、この共通している部分だって、完全に一致しているわけではないのだな、と思った。

例えば、性行為をした後のカップルは、性行為をした事実を共有しているが、その感想は二人の中で大きく異なるのかもしれない。
それに、性行為中に「相手は自分のことを考えているのだろう」と思っていても、実際相手は全く別のことを考えていることもありえるのだ。

そう思うと、付き合いが長くなったとしても、完全に相手のことを理解することはできない、と改めて感じた。

これは人間だけではない。例えば私の愛犬。
私はほぼ毎日愛犬の散歩をしているので、愛犬の性格を把握していると思っているのだが、本当の意味で全てを理解していたら、愛犬の行動を全て予知できることになる。
実際そんなことは無理な話であり、愛犬は予想外の行動を取ることもある。

全てを完全に理解することはできないのだ。だから、この世の全てのことは部分集合ではなく、共通部分。

相手を自分の枠組みに当てはめないこと。人にも物事にも、私の知りえない領域が存在することを理解すること。


そう思ったら、この部分集合によって説明できるものは他にもあることに気が付いた。

例えば、芸能人の不倫に関して怒る人。
その人にとって、その芸能人と共通の事実があるわけではなく、一方的に認知しているだけである。
しかし、その一方的な認知の中で、芸能人に対してあらゆるイメージを持つ。
芸能人にとっての範囲にその人はいないが、その人の範囲には芸能人の範囲が存在するのだ。

そして、その範囲を部分集合で捉えていると、それまでクリーンなイメージがあれば不倫の事実に猶更「裏切られた」と感じてしまうのだ。
もしくは、不倫に対して自分の中でネガティブなイメージを持つ機会があり、その事象と芸能人の不倫を結びつけているのかもしれない。

例えば、Twitterでのクソリプを送る人。
ツイートからわかる少しの情報を元に「その考えは間違っている」と決めつけてかかる。
自分の知りえる情報の範囲の中だけで相手を決めつけて、攻撃する。
その範囲外の事情があることを知ると、途端に黙ったり、「それを先に言えよ」と自分の非を認めない。

しかし、これもあくまで私のイメージであり、実際私はその人達のことを理解することはできない。




そう言いながらも、私は付き合いそうになった人を自分の枠組みにはめ込み、嫌な部分が出てきたら突き放すというひどいことをした。

それに、物事を勝手に決めつけて相手を批難するも、相手に深い事情があることを知り、「そんなん知らんかったもん」としらを切ったこともある。

私はよく人に「こうしたらいいよ」なんていうお節介なアドバイスをするが、それだってちゃんちゃら可笑しな話だ。
その人の抱える事象を全て理解しているわけではない、理解できないのに、わかった気で偉そうにも助言するわけである。
的外れも甚だしい。

穴があったら入りたいぐらい恥ずかしい。
私はこれまでに、人に対しても事象に対しても、勝手に自分なりの解釈を正確だと捉えて、それを人に押し付けてきた。
人を理解するために、何かの枠組みに無理やり当てはめていた。そんなことをしても、結果的に人を理解することはできていなかった。
芸能人の不倫に怒る人にも、クソリプを送る人にも、偉そうなことは言えないのだ。



誰かに対してももちろんのこと、この世界のことも、私の知らないことだらけである。この世界の長い歴史や今まで起こったあらゆる事象を、私は恐らく0.0001%も知らないのだと思う。

この世界でこれまで起こった全ての事象を大きな図書館に喩えるなら、私はその図書館の中の本の一、二冊くらいしか読めていない。

何かに関して、全てを完全に理解したことなどきっと一度もないだろう。
そしてこれからも、全てを理解することはできない、何事に関しても。



「あなたは私の、ほんの一部しか知らない」

この歌詞を初めて聴いた時に私は、「私はあなたが完全に理解できるような浅い女じゃないのよ」的な意味で捉えていた。
それは何だか強がりのように思えた。

しかし、「どう頑張ってもお互いを完全には理解できないけど、それが面白いんだよ」と言ってるように、今では思う。

「すべて知るのは到底無理なのに、僕らはどうして、あくまで何でも征服したがる」

「カンペキを追い求め」

「愛しぬけるポイントが一つありゃいいのに」

全てを理解できなくても、愛おしく思う部分が一つあれば、それでいい。

「すべて何かのイチブってことに、僕らは気付かない」

そう、気付かないのだ。気付けないのだ。
物事を自分の経験や考えに当てはめてパターン化することによって、深く考えたりする手間を省きたいのだ。
そして、全てを自分の価値観に閉じ込めるのだ。

私達はそういう生き物である、ということだけでも、少しは理解して生きたい。
そしてそれを忘れそうになった時には、この曲をまた聴こうと思う。

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