神様と一緒に住みたい③
フィジー旅行記の最終回です。
フィジーに着いて3日目、私達はお昼発の飛行機に乗るために、朝から出発の準備をした。
とても綺麗なホテルで、快適に過ごせて、本当に感謝。私達は、まだ帰りたくない〜と言いながら、トランクケースを持ってロビーに降り、チェックアウトを済ませた。
ホテルの入り口にあるバス乗り場に、お医者さんのおじさま達がいた。
おじさま達はそれまでは割とラフな格好をしていたのだが、その日はオフィスカジュアルな服装をしていた。今日は割とカチッとしたところへのお仕事らしかった。
私達は、昨日のマナ島での出来事を話した。
おじさま達の知り合いの女性と会えて、シュノーケルを貸してもらえたこと。
マナ島の海がとっても綺麗だったこと。
また、フィジーに来たいということ。
おじさま達は「よかったね」と言ってくれた。
そして、「これ、あげる」と、おもむろに紙を渡された。
どう見ても、子ども向けのまちがい探し。
「ちょっと!」「私達もう20歳なんですけど!?」とブーブー異議を唱えた。
おじさま達は笑いながら、君達はまだまだ若いよと言った。
「思い出に一緒に写真を撮りましょう」と言ったのだが、元気なおじさまは「若い子の写真の中に、こんなおじさんの写真があっても、おかしいよ」と言って笑った。
空港までのバスがホテルの前まで来て、日本語を話せるフィジー人のガイドさんが迎えに来てくれた。私達が「じゃあ」と言うと、おじさま達は
「お元気で」
と手を振ってくれた。
連絡先も交換していないから、今彼らがどうしているのか、私は全く知らない。
本当にお医者さんだったのかすら、わからない。
私はたまに、もう二度と会うことはない、彼らのことを思い出す。
自分が日本で生きているこの瞬間に、彼らは全く別の、遠いところで生きているのだろうか。
はたまた、日本でのんびり過ごしていたりして。
大学生の時に習った文学作品で、
もう二度と出会えないからこそ、わずかな思い出が宝物になる。
といった旨の文章を読んだ気がする。
誰が書いた作品かも思い出せないが、私は非常にこれに頷く。
ガイドさんがバスの中で
「楽しかったですか?」と聞いてくれた。
私達は「楽しかったです」と答えた。
フィジーに着いてすぐのバスでは、私達はひどく怯えていた。それを思えば、帰りには随分と落ち着いたものだなと、他人事のように思った。
バスは空港に着き、ガイドさんが諸々の説明をしてくれて、ガイドさんと一緒に写真を撮ったりなんかした。
ガイドさんと別れ、空港の待合室で私達はお土産をわんさか買い込んだ。
到着した時は「これ本当に空港…?」と思ったが、帰りには「色々充実してて最高だなぁ」と思いながら過ごした。
そして、飛行機が離陸。
離れていくフィジーの地を、私達はずっと眺めていた。
空港内のCAさんは、行きのメンバーと同じだった。目が合うと、手を振ってくれるおじさんのCAさんもいた。
そんな中で、もうすっっっっごい綺麗なCAのお姉さん(大韓航空なので韓国の方)が
「今度日本に行くから、おすすめの食べ物を教えてほしい」
と英語で話しかけてくれた。
私達は拙い英語で、大阪はたこ焼きが美味しいとか、東京はもんじゃが美味しいと伝えた。お土産では、月化粧がおすすめと伝えたい。(大阪人なので)
とんでもなく綺麗なお姉さんと話せたことで私達のテンションは爆上がり。
お姉さんは「アリガトウ!」と言って、お仕事に戻っていった。
飛行機は無事に、乗り継ぎの仁川空港に到着。行きは6時間程の待ち時間があったが、帰りの乗り継ぎ時間は2時間程だった。
私達は、仁川空港内にある、韓国伝統文化センターというところで、紙のお皿型の容器作りに参加させて頂くことにした。
日本語を流暢に話す、韓国人のお兄さんの説明を受けながら、紙を切ったり、のりを貼ったりして、容器を作っていく。
ちなみに私は、マジでびっくりするぐらい手先が不器用だ。字も汚いし。
「意外すぎる欠点」とよく言われる。
正しいお箸の持ち方も、なんと去年24歳でやっと覚えられた程だ。
ちなみに今でもペンの持ち方は間違っている。
あまりの容器の崩れ様に、お兄さんに「僕も最初はうまくできませんでしたから」と慰められた。
一方、幼馴染は、マジでびっくりするぐらい手先が器用だ。字も綺麗だし。
私達は同じ中学に通っていたのだが、幼馴染は毎回美術の授業で先生に褒められていた。
私みたいなド不器用は、早々に「綺麗に作るのは不可能だ」と悟り、パパッとグチャッと適当に汚く終わらせるし、出来が悪かろうがそんなに気にしない。
しかし、幼馴染は一切手を抜かない。
ちゃんと時間をかけるところはかけて、慎重に丁寧に容器を作っていった。
これは私が作った容器だ。
形が歪んでるし、縁がのりまみれ。
幼馴染の完成品とは雲泥の差だった。
でも、私はこの容器を気に入って、数年後、東京勤務で一人暮らしをしていた時に、テレビの横にこれを置き、リモコンや鍵などを入れていた。
そして、仁川発、関空着の便に搭乗し、私達は無事に日本に帰ってきた。
帰国した時はもう夜で、幼馴染と別れ、実家に帰った。家族にお土産を渡し、愛犬と戯れ、これまた泥のように眠った。
次の日の朝に目が覚めて、自室の天井を見ながら最初に思ったことは、「どこの国?」だった。
そしてすぐに、私日本に帰ってきたんだ!と認識した。昨日までは、ここから絶対に歩いては辿り着けない場所にいたのに。
しばらく寝転がったまま、昨日までのことを考えた。
親がいない場所、日本語が通じない国、遠い海の向こうに、旅行会社さんにほとんど旅程はお願いしたとはいえ、私は自ら行くことができた。
自分の行きたい場所は、自分で選ぶことができる。
それをできる年にもなったし、それができるお金を(当時は少しのバイト代だが)自分で稼げるようにもなった。
私は自由に生きることができる。
めちゃくちゃ壮大だが、これに気がついた瞬間、私はとんでもなく感動した。
私は正直それまで、学校が苦手だった。
特に小学校、中学校。
クラス分けされて、クラスの中で仲の良い人を見つけないといけなくて、お昼時間には誰かと一緒にいないといけなくて、休み時間に一人でいると変で、
何でこんなに、同じ人達と、同じ空間に、何時間も缶詰にされないといけないのか?
と、私はずっと思っていた。
みんなと同じような趣味を持って、同じような行動するのが正しくて、ちょっと変わった事をすれば変人扱いされる。
私はよく「行動力がある」「大胆」と言われるのだが、逆に
何故そんなにいちいち群れる?
何故そんなに恥ずかしがる?と思っていた。
どうして授業中に手も挙げられない?
どうして教室移動すら誰かと一緒じゃないといけない?
どうしてそんなに周りの空気に合わせないといけないのか?
「みんなと同じ行動を取らないといけない」という同調圧力の中で、思うがままに行動したい自分としては「息苦しさ」を感じたことは数え切れないほどあった。
友達には恵まれたので(嫌な思いをしたことも無くはなかったが)まあそこそこちゃんとやれていたと思う。
高校は自分で授業を選択できるところに通っていたので、自分の学校イメージの中では、比較的楽に過ごせた。
そして、20歳、大学3年生で、自分の住む場所も自分で決定できることに気がついた。
それから私は、
「日本から出る」
という選択肢も常に用意しておくようになった。
だから、東京で会社員をしていた頃に胃を痛めて、勤務先の最寄り駅のトイレで戻した時だって、生理が何ヶ月も止まった時だって、
いつでも、「私はここじゃない場所に行ける」と信じて頑張った。
本当は、会社も海外に行くために辞めた。
それが去年の5月で、ご時世的に難しいと判断して、私は別の道を模索した。
でも今、私はまた、海外に行くことを決めた。
来年の5月から1年間。
国はまだ迷っているが、暖かくて、気温差が少ないところに行こうと思う。
花粉症持ちだし、寒暖差アレルギーなので、日本の季節の変わり目は辛すぎるのだ。
そこからのことは考え中。
日本に戻るかもしれないし、別の国に行くかもしれない。
まあでも、どこにでも行けるし、どうとでもなれることを私は知っているから、大丈夫。
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