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20191218 遊び初め

 生まれ育った素晴らしき平成時代が過去の遺物へとなり腐るまで、残された日数は数える程になった。脳裏に焼き付いた鮮明過ぎる記憶は、義務教育時代に初恋の奴隷となった僕の愚かさだったり、高等学生の頃にNumber Girlを初めて聴いた瞬間の衝撃だったり、大学からの帰り道で垣根を飛び越えると豪語した友人が、突如走り出し、大きく跳躍をして垣根の向こうへ消えてから傷だらけで帰ってきたことぐらいしかない。僕は有意義であって然るべき有限の日捲りを引き千切りながら、「ああ、今年も何もしなかったなァ」とか実を結ばない回顧に勤しんだり、「ああ、また歳を食うなァ」とか腹ぎしに飲み込んだ虚無感を消化している。
 一年間分の思い出を整理しながら、反芻に耽っていた数日前。「エッセイストになりたい」という欲求が僕へ矢庭に襲い掛かった。ラブ・ストーリーよりも突然にやって来たそいつが、僕のキュートなお尻を蹴り上げるものだから、これは天啓なのやも知らないと、好機を逃して堪るかと、一念発起し今に至る。そうして、僕はクロエ・グレース・モレッツのいる白昼夢を見た気分でキーボードをぶち叩いてる。
 厭世家がエッセイ家になる夢を持ったってええじゃないか。然したる話題を持たなくてもええじゃないか。そういった肩書きが粋で鯔背に思えてしまうのだから、不純な動機で心を躍らせるのも致し方ない。何と言っても、僕の来歴書は渺茫としてタブラ・ラサのままで、紙魚があちらこちらで食い散らかしている。特筆すべきは普通自動車運転免許がマニュアルに対応しているくらいなもので、筆舌に尽くせん程に読み応えがない。加えて学の持ち合わせが足らないのだから、尚のことに『なんたら家』やら『なんたリスト』という屋号は憧憬の的となっている。言語能力は乏しく訥弁が故に、晦渋な言い回ししかできず、ユーモアのセンスは出涸らし切っていることが悔やまれるばかりだ。多少なりとも面白可笑しいものが書けやしないかと研鑚を積んだところで、衒学者風にもなれない僕は、「止めて! ペダンティック!」と歌うことしかできない。それでも色褪せ気味の日々に着色をするため、プライムショッピングでレインボーアートデラックスを注文する筈だったが、生憎の資金難によって随筆活動での憂さ晴らしをせざるを得なくなったのだ。日々は尊い。一寸たりとも無下にせず活用していかなければ。僕はだらしなく生きている。
 などと中身が竹輪程に詰まった前置きを垂れ流しておきながら、僕はエッセイというものをよく知らない。なんという特大で致命的な弱点だろう。弁慶も絶叫し悶えるに違いない。僕が熟読した随筆といえば、青い尻を晒し、青っ洟を垂らしている頃に、悪魔の名指しで音読させられた枕草子の第一段くらいしか思い浮かばない。散らかった部屋には俵万智氏のエッセイが寝転がっているが、それも冒頭をなぞっただけだった。サラダ記念日が唯一の知識で、メロン記念日とプッチモニの違いもわからない。直にぴったりしたいクリスマスが訪れる。

映画観ます。