【現代評論】 頑張る気なんて微塵もない
いつかの『朝まで生テレビ』で、科学者の落合陽一氏が
「これからの日本はやる気がある人にとっては楽勝です、余裕で勝てます」
と仰っているのに対し、作家の雨宮処凛氏が
「頑張らなきゃ勝てないんですか?」
と返しているのが爽快だった。
正にソレだ、なんで世の中こんなに頑張らなければならないのか?
勿論、落合陽一と同じ歳を重ねた私にも、頑張ってきた時代はある。
小学生からハマり倒したカードゲーム、学生の頃に熱中したテニス、バンド活動、作曲活動など、今振り返ってみると日々頑張っていたと思う。
しかし「頑張った」とも表現出来るが、「楽しんでいた」と表現する方が実際正しいだろう。
勝ちたかったし、上手になりたかったし、夢を持っていたから、「頑張ろう」という意識ではなく楽しんでいた。
だが冒頭で例にあげた落合陽一氏の放った「頑張れば」は、そこに我々俗通レベルの「楽しめば」を含んでいただろうか?
彼のような元よりハイクラスな人間の「楽しむ」を私たちは到底理解出来ない。それは彼が製作しているメディアアートを見ればその「違い」が鮮明だろう。
同番組に出演していた堀江貴文氏も同調している様子だったが、堀江氏のステータスも落合氏同様、僕らには到底理解出来ない領域の人間だ。
彼らにとっては「頑張れば=楽しめば」というニュアンスだったかもしれないが、生きてきたステータス上その領域を知らない我々からすると、その表現は「血反吐が伴う努力をして、かつ運が良ければ」くらいのレベルだろう。つまり所詮は楽しむことなんて出来ない、努力してナンボなのだ。
話を戻すが、そもそも何かしなければただ朽ちていくだけのこの社会は果たして正常だろうか?
極論だが、ただ生きているだけは許されない。そう言われているようにしか感じない。
それでいてテクノロジーによって情報が通通の時代だ。自分がいくら頑張ってもたどり着けない領域があることを予め知ってしまっていて、自分が悩み、葛藤し、苦しんでいる合間に、大した苦境も経験せず生まれ持った容姿や環境を武器にのらりくらりと裕福に生きる真反対の人間が同時刻に存在することも知っている。
そんな人生に見切りを早々に付け己の命を絶とうと願う若者が急増していると、山田玲司と岡田斗司夫も対談で述べられていたが、納得だろう。
ただ、「頑張ってナンボ」を強制するこの世の中に屈してしまう、日本人の精神が真面目すぎるとも思う。
勿論その真面目な精神性は尊いものだが、その精神性を巧みに利用して、挙句そこまでの失望を見せてくる世に対して見切りを付けるのであれば、人生を絶つよりもっと不真面目に生きてもよいではないか?
もっと自分に対して、色々許してやっても良くないか?
尊厳すべき道徳や、高貴な人格を語るのはいつだって成功者達だ。自己啓発本の定説である「先に人格ありき」を謳うのも、あくまで成功者だ。いくら人格を高めても叶わない領域があることをもう知っているのだから、そんな下らない習慣や意識を捨て去って、もっと自由に、もっと不真面目に生きてやってもよいではないか。
かつて、同じ様なマインドを「No Future」と言い放ち、やりたい放題在ろうとする若者を「パンク」と言った。
彼らは女王の目に斜線を引いて、「God Save the Queen」と題打ち王政を批判した。
映画JOKERでは、報われない不遇の果てに優しい人間が悪の道化師と成る物語を描いた。
現代にだってもう少々、「報われないのなら・・・」という解放されるべきパンク精神、正しく健やかな悪の衝動が皆の心に宿っても良いと私は思う。
ただ生きることが許されない世だとしても
頑張る気なんて微塵もない。
指刺されてどう見られようが、ドブネズミのままでいいじゃないか。
ビューティフルに生きて死ぬための僕らの人生だ。好きに生きよう。
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