7月拝観法話『何を主にして生きていくのか』
日毎に炎暑が厳しさを増す今日この頃、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
蒸し暑い中、泰勝寺へお参り下さり、有難うございます。
少し泰勝寺の庭へ目を移してください。
庭のメインは何でしょうか。
南天、松の木、苔、三途の川、八幡山の借景、メインはなく、それぞれの個性が相重なって、泰勝寺の庭を創り出しています。
「随所に主となれば、立処皆真なり」臨済宗の宗祖・臨済義玄が修行者達に与えた言葉です。
「主」とは主体性を持って生きることです。
総じて「今の置かれた立場や環境で、主体的にそれぞれのなすべき務めを精一杯に果たせば、必ず真価を発揮することができる」という意味の禅語です。
禅は、己に内在する仏様を自覚し、仏様を「主」にして生きていくことを目指します。
禅は移ろいやすい周りや他者を「主」とするのではなく、自己を「主」として生きる境地を目指します。
お釈迦様も「他をよりどころとせず自らを由り所とせよ」と、仰っています。
自由とは「自らに由る」と書きます。
本当の自由とは、主体性を確立してこそ得られるものではないでしょうか。
吉田兼好の『徒然草』には「吉凶は人によりて、日によらず」とあります。
その日が吉であるか凶であるかは日によって決まるのではなく、その日その時を生きる人の心の持ちようによって決まるという意味です。
己のなかにある仏様を自覚して、お互いにそれを主として生きていきたいものです。
あなたのなかにある仏様はどのような仏さまでしょうか。
私達ひとりひとりの命はかけがえのないもので、それぞれに個性や長所があり仏様がいらっしゃいます。
自身の仏様や長所・強みが無いと思う人は、気付いていないだけだと考えます。
変化をし、あてにならない他者や社会の評価を必要以上に気にかけるのではなく「随所に主となれば、立処皆真なり」自身の心をより所として、自己を大切にし、また、自己を大切にするように他者をも尊重し、自由な心で、今を積み重ねていくことが、仏様として生きていくことに繋がっていくのではないでしょうか。合掌
令和五年文月二日