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お皿が洗ってくれるのを待っている 信仰とコーチング

おかげさまで、食堂はオープンから半年が過ぎました。

いまだコロナ禍の中ですが、少しずつお客さんが増えてきました。おかげさまで「○○さんから聞いたよ〜」という紹介や口コミが広がっているようです。

ただ、吹けば飛ぶような食堂です。何かがあったらすぐに終わってしまう儚い存在であることを日々実感しています。

これは決して悪い意味ではありません。だからこそ、一日一日を大切に全力を尽くすことが出来ています。

お客さんが「美味しかった」と言ってくれれば、スタッフといっしょに喜びます。みんなで落ち込む日もあります。ともに汗を流しています。


食堂をはじめてから数ヶ月は怖くて、日々戦場に行くような気持ちでした。

何をはじめる際にも、私はこうした得体の知れない不安に襲われます。

このままお客さんが増えず、お金が尽きるのではないか。
何か大きな問題が起こるのではないか。
モチベーションが持たないのではないか。

ただ、こうした事象が本当の問題ではありません。

私自身が困難に耐えられるか?というのが真のテーマなのです。

もちろん精一杯頑張るのですが、私の繊細な心は果たして耐えられるのだろうか、と。


そんな繊細な私を支えてくれているのは、信仰なのだと思います。

信仰というと違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。

少し補足すると、私にとっての信仰とは、特定の宗教を信じることではありません。

ここでは、信仰とは何かを論じることは、あえてしません。人や宗派によって、信仰の捉え方は違います。ここからは、あくまでも私自身が日々の生活の中で体験していることを言葉にしてみたいと思います。

私にとっての食堂は、信仰の実践と言ってもいいかもしれません。

それは「与えられた、このいのちを生ききる」ということを、日々どのように生活で実践していくかです。


以下は、食堂での実践の一例です。

・1人の女性とのご縁から食堂をすることになりました。

・自分のための経営ではなく、いかに自我を超えていくかに取り組んでいます。

・頭で考えて上手く運営するのではなく、まずは体験するようにしています。

・正しい間違いというジャッジや思い込みではなく、ありのままの姿を見ることを大事にしています。

・過去や未来に囚われるのではなく、今この瞬間を感じています。

・一方に偏ったときには、それに気付くようにしています。

言葉にすると、なにやら難しいですね。ただ、これらはすべて後付けなのです。

私の土台になっているのは坐禅です。禅が面白いのは、知識で物事を語ろうとしないことです。坐禅という体験の中から、自分がいかに気付いていくかを探求します。

坐っているときだけが坐禅なのではありません。日々の生活も坐禅的なあり方でいられるかを大事にしたいと思っています。

そんなに大層なことではありません。


先日、厨房の洗い場を見ると、返却されたお皿が洗ってくれるのを待っていました。

お皿達が「洗って〜」と言っているのです。

また、あるときは、机が拭いてくれるのを待っていました。

こういう声が聞こえてくるとき、結構身体は疲れています。「自分でなくても誰かがやってくれるだろう」という囁きも聞こえてきます。

さあ、どうする?

今ちょっとしんどいからパスというときもありますが、気がつくとサッと動いていることが増えてきたように思います。

食堂をはじめた頃は、「お皿を洗わなくてはいけない」、「机を拭かなくてはいけない」という義務感から作業をしていました。

食器や机が自分を呼んでいるというのは、生かされている体験ではないかと思います。義務感ではなく、導かれるまま自然に動けるようになってきたのが嬉しいです。

大した話でなくてすみません。とっても小さな話です。でも、こうした小さな気づきが私にとっての信仰であり、私の心を支えてくれているのです。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

正直、「信仰」というキーワードを出すことに躊躇しました。

なぜなら、信仰に対してアレルギーがある人もいらっしゃると思うからです。せっかく読んでくださっている、あなたの心が離れてしまうのが怖かったのです。

一年前でしたら、お伝えしなかったでしょう。

でも、今はお伝えしています。

ときが熟したのかもしれません。何かに背中を押されて、言葉が出てきました。


先日、「できることなら、食堂が一日でも長く続いて欲しい」と思いました。

この言葉は、これまで食堂をやってきて、はじめて湧いてきました。お恥ずかしいことですが、今までは一日も早く止めたかったのです。

自分からはじめておいて、なんと情けない言葉なのだろうと思います。世間一般の常識から考えれば、経営者には許されない言葉かもしれません。


大きな志もない。大した戦略もない。強い心もない。


でも、これが私なのです。

私だけでは、きっと困難には耐えられないでしょう。

若いときから、すべて1人で抱えて生きてきました。それが私の心の癖であり「業」なのです。

それがアメリカに行くようになり、少しずつ心を開いて、仲間に頼れるようになりました。しかし、すぐに1人ぼっちの孤独な世界に戻ってしまうのです。


最近、食堂にはいのちが宿っているように感じます。

もし、お客さんが来てくれるなら、ご縁が続くなら、できることなら、このいのちが続いて欲しい。

スタッフや食堂が私の繊細さをサポートしてくれている。お皿が洗ってくれるのを待っている。

そう思えているとき、私は少しだけ強くなります。


一日のはじめには、今日も無事にやり遂げられることを祈ります。一日の終わりには、今日も無事にやりきれたことを感謝します。

祈りと感謝。

とてもシンプルな日々です。

今日も食堂が生き残れて、運がよかったなと思います。運という、ほそーい糸が切れなかったことにホッと胸をなで下ろします。


周りからは、とても順調に見えるみたいです。また、食堂に来てくださった方は、「赤野さんはイキイキと本当に楽しそうに働いている」と言ってくださります。

自分が思っている自分自身とはまったく違うのが不思議です。以前でしたら、そんなことはないと即座に否定したでしょう。

今は、「ひょっとしたら、そういう自分もいるのではないか。まだ気付いてはいないけど、イキイキと明るさに溢れている自分がどこかにいるのではないか」と思いはじめています。


そういえば、食堂のコンセプトの一つは「自由」です。スタッフも自由にノビノビとやっています。また、お客様も自由に好きなおかずが選べます。節約したいときは、メンチカツ(380円)とご飯の小(130円)をとれば、追加の野菜とお漬物がサービスなので、510円で十分お腹いっぱいになります。

たくさん食べたい人は、いろいろな組み合わせを自由に楽しめます。1000円使うお客様もいらっしゃいます。

お昼ご飯にちょっとした自由を楽しんで欲しいのです。


「自由」というのは、きっと私の根底にあるテーマなのでしょう。それが食堂の魅力のひとつになっているとすれば、嬉しいですね。食堂という「いのち」と私とのコラボレーションだからです。


日々もがきながら、助けられながら生きている中で、なにやら「信仰」という軸が育っているようにも思います。ひょっとしたら幻・・・かも知れませんが(笑)

これから、どんな自分に出会えるのか。それが私にとっての、食堂での修行なのでしょう。


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