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【禅コーチング】 行き詰まったときに解決しようとしないこと 「私の問題」から「わたしという問題」へ


AかBかと悩む。
何が正解かを考える。

しかし、いい答えが出ないときがあります。

それでも何とか答えを出そうとする。

AかBか、あるいは何とかいい答えを出そうとする問題のことを、
藤田一照老師は「私の問題」と言っていました。

しかし、答えを出すことだけが解決ではありません。
むしろ、答えを出さない方がいいテーマもあります。
なぜなら、もっと深いテーマを人は持っているから。

もう1つの深いテーマ。
それは「わたしという問題」です。

これは、AかBかではありません。正解でもありません。
AとBということを問題にしている自分自身の問題です。

少し抽象的になってきたので、先日私自身に起こったことをお伝えしたいと思います。

先日、ある会に出席したときのこと。
会の後に開かれる懇親会への出欠を求められました。

私は、懇親会が苦手です。
いつも懇親会に出席しようかどうか悩みます。

懇親会に出るか、それとも出ないか。

いくら考えてもいい答えは出ません。

以前でしたら、無理矢理答えを出していました。
何かいい理由をつけて。

たとえば、出席するに答えを持っていきたい場合、
今日は会いたい人がいるから出席しよう。
今後のために、いろいろ人脈を広げよう。
いろいろ難しいことを考えず、ただ坐っていればいいじゃない。

一方で、参加しない方に答えを持っていく場合は、
心が参加したくないと言っているから、心の声に従おう。
静かな時間が欲しいから、夜は心を落ち着ける時間をとろう。

人は悩むときに、何か理由や目的を見つけようと考えます。
それはそれで悪いことはありません。

でも、それでは何か違う気がするときある。
無理矢理な感じがする。
2者択一で考えることが苦しい。


そんな違和感や苦しさ、迷いがあるならばそれがあなたの本当の声。

考えても答えは出ない。
それがあなたの答えです。

ここからは、禅を学ぶ中で見つけた私のやり方です。

1. まず、どちらかに答えを出そうとしていることに気づく。(これがなかなか難しい。)

2. 気づいたら、どちらかにするのをいったんやめて、2つを並べてみる。
→決めることに固執していた自分に気づく。
固執していたことに気づくと、「どっちでもいいじゃないか」という声が聞こえてきた。

3. どっちでもいいじゃないかという選択肢が生まれたことで、心が楽になる。

4. しばらく、どっちでもいいじゃないかという感じで、放っておく。

5. すると、ふと「時間内に決めなければならない」とこだわっていた自分が浮かび上がってくる。

6. これが今回の「わたしという問題」かもしれない。
問題の根っこは、2つのどちらか「行くか」「行かないか」に決めることではなく、限られた時間の中で、決断しなければならないと縛っていたことが苦しみだったことに気づく。

7. そこで、「今決めなくてもいいじゃないか」という選択肢が生まれる。
時間内に決まればそれもよし。決まらなければそれもよし。

8. 結果的に、時間内には決まらず、懇親会にも出席はせず。
今までなら、出席した方がよかったのではないか、いや出席しなくてよかったという2つの声がいつまでも喧嘩をしていたが、今回は不思議にすっきりしていた。
1人でのんびりご飯を食べて、お茶をしながら、その日を振り返っていた。
決めなかったことへの後悔もなく。いつか決まればいいやという感じで。

誤解がないように申し上げておきたいのは、
このプロセスが正しいか間違っているかではありません。
あくまで個人的な体験と気づきです。

今回の場合、行くか行かないかという問題から、時間内に決めなければならないという「時」に縛られている「わたしという問題」へとシフトしたような感じがします。

「時間」というのは、私が苦しんでいる恐れの1つです。
私には時への執着があります。

いかに時というとらわれから自由になっていくか。

「私」から「わたし」というのは、固定概念から離れてまっさらな自分になった感じかもしれません。「わたし」に返ると、問題はまったく違って見えてきます。


少し一般論に戻ります。


「行き詰まる」という状態があります。

いろいろな理由がありますが、行き詰まった状況に共通しているのは「何か」にこだわっているという点です。

私たちの意識は、何か特定のものにフォーカスするように出来ています。

何かを懸命に見ていると、周りの音は聞こえなくなります。
また、何かを考えていると、風は感じられない。

なかなか不器用に出来ています(笑)

特に「行き詰まり」を感じるときは、まさに何かが詰まっていて、抜けていない状態。

心理学では「注意配分」という言葉を使いますが、何かに注意の配分が行き過ぎると、全体が見えなくなります。
結果的に、偏った状態での判断になりがちです。

注意の配分を思考で何とかしようとすると、さらに注意の配分が偏っていきます。

「行き詰まり→思考での解決」には限界があります。
AかBかどちらが正解かと考えても答えが出ません。

何かを解決しようとしているとき、私の問題を解決しようとしているとき、私という問題も同時に起こっています。

私という問題にいかに気づくか。
これは禅を修行していての大きなテーマです。
一言でいえば、坐禅をはじめいろいろ工夫していくしかないのだと思います。

最近工夫の1つとして効果的だと感じるのは、
身体を使って注意配分を均等化し、「全体を感じる」状態を作ることです。

藤田一照老師は、
「坐禅においては、特定のものに偏らないで、すべてを均等に柔らかく受け取ることが大事ですよ」とおっしゃっていました。

行き詰まっているときに坐禅をしていると、妙に息の速さや深さにこだわったりしています。
いい息をしようとするほど、息をするのが苦しいです。
しかも、自分を見る目も厳しかったりします。

まさにこれが行き詰まっているというなのだなあと感じます。

全体を柔らかく均等に受け取ることで、次第に「何か」へのこだわりが薄まります。

日によってはどこかで、ふっと力が抜ける瞬間があります。
しがみついていた「何か」を手放せた感じかもしれません。

これは、AでもBでもない、本当の課題に気づけた瞬間。
自分が何にこだわっていたかに気づくことで、絡まっていた糸はほどけたりします。

行き詰まったときに必要なのは、解決ではなく、気づくことではないでしょうか。

偏っていた注意配分がリセットされると、行き詰まっていたものが抜けます。

そこで、やってほしいのが、行き詰まったときに、その状況を書き出してみること。
そして、ただそれを眺めるのです。

何も考える必要はありません。
ただ、全体を眺めるだけです。
そして、何か付け加えたくなったら、書き足していきましょう。

解決しようとするから、余計な力が入るのです。
ポイントは力を抜くこと。
そのために、ただ眺めるのです。

力が抜けると、視点が変わる瞬間があります。

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