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【禅を仕事に活かす】 気づいたときに問題は成仏している 偏った心から中道へ

最近、仕事でオンラインでの会議が増えてきました。Zoomで会議に参加していると、自分の姿が映るのが面白いです。

先日、会議が進んでいく中で、ずっと自分の映り方が気になっていました。

髪型をいじってみたり、表情を変えてみたり。こんなにも自分のことが気になるのだということに気づかされました。

全員の中で、自分だけが浮き上がっているような感覚。周りでは無く、自分へのフォーカスが圧倒的に強かったのです。私の場合は、大勢の中にいるときほど、孤独を感じます。上手く周りに溶け込むことができません。

そうすると、何を話せばよいのか分からなくなります。無理に笑ってみたり、場に合わせようとしたり。無意識に自分のあり方にこだわってしまうのです。無理するほど周りとの距離ができます。寂しく、苦しい時間です。

私が坐禅会に行きはじめたきっかけは、いろいろなことに感じる「苦しみ」でした。禅には、苦しみと上手く付き合っていくヒントがあるのではないかと思ったのです。

坐禅に組み始めた当初は、自分の坐り方や呼吸などいろいろなことが気になって、坐ることが苦痛で仕方ありませんでした。せっかく楽になるために坐っているのに、苦しいのです。

藤田一照老師と出会い、「呼吸は呼吸に任せればよい。呼吸は毎回違っていい。」と教わりました。それまで、「長く深い呼吸をしなければならない」と思っていた私には、衝撃でした。坐禅をしながら、自分にこだわっていたのです。

私の苦しみの源泉の一つは、自分へのこだわりが強いことです。

私にとっての禅は、自分を空け渡していくことといえます。それ以来、徐々に、自分のことが気にならなくなっていきました。坐禅の時のあり方は、普段の自分のありかたにも活きています。

少しは成長したかなと、先日まではそう思っていましたが、時として、まだまだ自分へのこだわりが強くなることに気づかされました。

中学生のとき、クラスメイトからいじめられたことがまだ影響しているのもしれません。大勢の中で無視され続ける中で、どう自分が思われているか、ただそれだけを日々考えていました。ただそれ以前にも、大勢の中にいるときほど、1人を感じることがあったように思います。周りに上手く溶け込めないというのは、私の苦しみの原点かもしれません。

いじめられたことが思い出されるとき、とても嫌な気持ちになります。30年以上経ってもまだ傷は癒えていないのだと悲しくなります。

ただ、今回いじめ経験が思い出されたとき、ある考えが浮かんで来ました。「なぜある特定の経験が何度も思い出されるのか?」。決して、その経験を思い出したい訳ではありません。なぜ嫌な経験を思い出して、さらに嫌な気持ちにならなければならないのでしょうか?

アドラー心理学的にいえば、何か目的があるのでしょう。思い出すことに何かメリットがあるということになるのだと思います。

しかし、目的やメリットという表現はしっくりきません。もっと大きな自然の働きがあるのではないでしょうか。

何を思い出すのかは、私の意志を超えています。

今この瞬間、今ここには、言葉になる前の様々なエネルギーが存在しています。言葉にできていることは、ほんのひとかけら。言葉になっていないこと、言葉にできないことが圧倒的に多いのです。

言葉が組成されるのは、何かのエネルギーを切り取っているのではないでしょうか。

その日の体調、気分があります。昨日まで元気でも、一夜明けてみるとだるさを感じることがあります。また、逆もしかり。もっといえば瞬間ごとに変化しています。

また、周りのエネルギーも常に変化しています。1人のとき、会社にいるとき、友人といるとき、家族といるとき、好きな人といるとき、嫌いな人といるとき。

さらに、今の状況のように、社会を覆っているエネルギーがあります。

また、過去からの時の流れというエネルギーもあります。

私たちの言葉は、こうした様々な影響を受けながら、生まれているのです。

不安のエネルギーのとき、過去の不安な経験と結びついて、言葉が湧き上がってきます。

怒りのエネルギーのとき、過去の怒り経験と結びついて、言葉が湧き上がってきます。

強いエネルギーのとき、強い印象がある過去の経験と結びついて、言葉が湧き上がってきます。

嫌なエネルギーのとき、嫌いな人や嫌いな経験と結びついて、言葉が湧き上がってきます。

過去の嫌な経験を思い出しているとき、過去に囚われていると思いがちです。嫌な人を思い出すとき、自分は嫌なやつだと思います。

過去から自由になりたい。
嫌だという気持ちから自由になりたい。

このように思っても、残念ながら、自由になることはできません。
それは、朝ご飯にパンを食べるのと同じだから。喉が渇いたときに水を飲むようなものだから。私たちは自然の法則に従って生きているのです。

では、私たちは完全に不自由に生きるしかないのでしょうか?定められた宿命を生きるしかないのでしょうか?私はそうではないと思っています。完全な不自由を受け入れたところに、実は無限に自由な世界は現れてくると。

武術家の甲野善紀さんは「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」と述べられています。

また、幸福学を提唱している慶應義塾大学の前野隆司教授は、「客観的に人間の脳や身体を見ると、何も自己決定していない」と述べられています。

嫌な過去を思い出すと、またかと嫌な気持ちになります。嫌な人を思い出すと、いつも嫌な気持ちになります。そんなことを思い出したくもないのに。

ただそれは、言葉にするという働きが起こっているというだけのこと。そのときの自分のエネルギーを表現してくれているのです。

この法則を体感できれば、思い出したときに自分を責める必要も、相手を責める必要もないのです。そのことに気づけたとき、苦しみだった過去の経験が柔らかくなったように感じました。

生き方によって、過去は恨みにも後悔にもなります。過去に縛られて生きることもできます。一方で、過去は糧になるし、希望にもなります。過去から自由になることもできます。

過去は変わっていくのです。過去は、今の自分を映し出すのです。

では、いじめの経験が思い出されたとき、どんなエネルギーだったのでしょうか?

懸命に今を生きようとして、少し真面目になりすぎていたかなと気づきました。真面目になりすぎると、自分へのこだわりが強くなっていくのです。

「〜すぎる」というのは心の持つ特徴といえます。私の場合は、「真面目すぎる」「こだわりすぎる」という癖があります。

そのことに気づけたとき、スッと楽になりました。そして、Zoomの画面を見ていて、あることに気づきました。

10人ほどのミーティングだと、パソコンの画面に映っている自分の姿は10分の1になります。10分の1の自分というのはすごく新鮮でした。


10分の1でいい。


会議が進んでいく中で、自分へのこだわりが薄くなっていくのを感じました。

お釈迦様は、「快楽に溺れるのでもない、苦行でもない、そうした極端に偏らない中道を見出した」と説かれています。禅の老師も、どのような体験も一時的で必ず過ぎ去っていくものであり、それを知った上で何事にも度を超さないようにする態度で生きることとおっしゃっていました。

人の心には、偏るという働きがあるということです。そこから逃れることはできません。だから、偏っていいのです。大事なのは、いかにそこに目を奪われるのではなく、気づけるか。

気づくことで、そこに中道という働きが現れてくるのです。

ここが中道だと決めてしまうと、もはやそれは中道ではありません。中道もあくまでも自然な働きの一つではないでしょうか。

「偏り→気づく→偏り→気づく」

このプロセスの中で、「中道」が現れてきます。中道とは、瞬間的なバランスのようなもの。バランスがとれた瞬間に自由を感じるのです。

禅を学ぶ中で、一つ分かってきたことがあります。



困っているときに必要なものは、「答え」ではないと。



苦しい時には、何かいい解決策がないか模索します。

これは、ビジネスでもスポーツでもいっしょです。

コーチングのセッションをしていると、経営者やアスリートからアドバイスを求められることがよくあります。

そんなとき、以前は、いいアドバイスをしようと心がけていました。一緒に答えを出そうとしていたのです。

解決策を模索することが必要なこともあります。答えを出そうとすることを否定はしません。

しかし、自分が見えていない状態で答えを出しても、心の底では納得できていません。また、別の答えを求めるだけです。

だから、最近は、まず「何が起きているのか?」を意識しています。

どうすればよいかと問うのではなく、今起こっていることを感じていると、自然に心がクリアになっていきます。

そして、少しずつ自分が見えてくるのです。そのとき言葉になっていなかったことが言葉になってきます。

これが「気づき」のプロセスです。

自分の本当の姿に気づければ、解決策は必要ありません。もう問題は成仏しているのです。

問題そのものに意味はありません。また問題は不変でもありません。気づきの中で問題は死に、また新たに生まれていきます。問題は、自分の意識の現れなのです。なので、問題は自分のあり方とともに変化していきます。

これが問題だと思ったときに、それは言葉になっています。ということは、その周りに言葉になっていない無限の世界が広がっているということです。問題を見る時に、問題だけを見ていくのか?それとも、その無限の世界に気づいていけるか?これは心の矢印というか、生きる方向性が違います。

これが答えを求めて生きる方向性と、気づきを求めて生きる方向性の違いです。

誤解がないように申し上げると、これもどちらが良い悪いではありません。

とことん問題にこだわり、答えを出そうともがく中で、見えてくるものがあります。

一方で、問題から離れることで生まれてくる気づきがあります。

どちらも今自分に起こっていることです。
起こっていることにただ寄り添い、気づき続ける。

その道には、無限の自由があるように思いませんか。

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