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寂しさや空虚感を感じたときに 終わったときには始まっている

以前もお伝えしましたが、ゴルフダイジェストの連載が先月で終了しました。3年半、のべ170回にわたってお伝えしました。書けば書くほどまだまだ伝えたいことがあっただけに、終了を告げられたときは、正直ショックでした。書いたものを発表する場がなくなり、連載が終了し一時は何もする気がなくなりました。

書くのは本当に楽しい。それを誰かが読んでくれるというのはさらに充実感を覚えます。メンタルトレーニングで経験したことをお伝えする。書きながらメソッドを整理するというのが大事なルーティンだったことに気づきました。

ルーティンがなくなるというのは、ポッカリと穴が開いたような感じです。ただ一方で、一生懸命ゆえに心にスペースがなかったことにも気づかされました。

こういうときには寂しさや空虚感を埋めようとして、急いで何かを入れようとしないことです。禅の師匠が「空っぽなすきまが心や身体にあるということは、初心でいるということ。その空間は可能性なのです。」とおっしゃっていたことを思い出しました。

まずは、空き部屋になった場所にただ佇んでいることにしました。できることを淡々とやっていく日々。手応えはまったくありません。そんな日々を過ごす中で、一つのことに気づきました。

それは、求めているものは見えやすい。与えられているものは見えにくいということです。

何かが欲しいと手を出した瞬間に、自分の中で「求めているもの」があります。手を出した時点で得るものを予測しているのです。やってくるものを選り好みしたり、気に入らないものは受け取らなかったり、自分が欲しいもの以外が見えないのです。

そう考えれば、ずっと手を出す人生だったかなと思います。与えられているものに満足できず、いつも人が持っている物をうらやましく思ってきました。禅を修行していても、禅から欲しいものを求めて、ずっと手を出していたように思います。

うかつに手を出さないこと。与えられているものを満遍なく見られるか意識する。そうしていると、想定外、不可解なものがやってくる。

いっときは、禅コーチングの普及拡大をしようかとも思いました。禅とコーチングを融合させた新たなコーチングメソッドを体系化する。ビジネスパーソン向けのワークショップなどを企画し、後進のコーチも育成する。今までの経験もいきるし、広げていくことは難しいことではないと考えました。

しかし、これは分かっている道です。頭で予測ができる道です。求めている心で、手を出しているだけではないのか。いつかはやりたいけど、今ではないのではないか。しばらくの間、求める心との葛藤が続きました。

しかし、人には素晴らしい自己調整能力がありますね。それは「忘れていく」「癒えていく」力です。ゴルフダイジェスト連載終了も仕事が終わったことも、時と共にだんだんと薄れていくのです。私たちには「とき」という力が与えられているのです。

与えられているものをただ受け入れたい。ないものを求めるのではなく、与えられているものに気づいていこう。

そんなことに気づいたころでしょうか。新たなご縁が生まれてきました。まさに、空っぽになった空間に新たな可能性がおのずから顕れてきた感じです。

なんと「食堂」をやろうとしています。
1人の女性と出会い、その人の想いを実現させてあげたいと思ったのです。

炊きたてのご飯と美味しい味噌汁。
仕事を頑張るためのエネルギー源になる唐揚げや天ぷら。
お袋の味の代名詞である煮込み料理。
そして何より、野菜をいっぱい食べて欲しいそうです。

この女性はなんと70歳。飲食業の経験はありません。あるのは、これまでの社会経験とやる気。

私自身も飲食業の経験などありません。正直、まったく分からない道です。

経営者もご飯の作り手もまったくの素人からの出発ですが、この人なら出来るだろうと直感しました。

この女性も食堂というアイディアも、与えていただいたご縁のように感じています。そこには、元気に頑張っているおばさんたち、幸せな顔で食べているお客さん、笑いながらお手伝いしている「わたし」もいます。幸せなイメージが湧いてくるのです。

それだけで十分ではないか。心が決まりました。食堂開店に向けて、一気に進みはじめました。



ここまで読んでいただきありがとうございました。

正直なところ、今回、食堂の件を書こうかどうしようか悩みました。

もし、上手くいかなかったり、途中で終わったりしたら恥ずかしいからです。noteの読者には、経験豊かなビジネスパーソンがいらっしゃるのに、こんな稚拙な考えで事業をスタートすることをガッカリされたり、ビジョンも戦略も目標もハッキリしていない甘さを批判されたりするのではないかという不安もあります。

本当は、食堂が成功した後、苦労話として書けばいいのだと思います。成功者と言われる人が著書の中で「あのときは大変だった」「こんな大失敗をした」と過去を振り返る感じで書けたらどんなに格好良いかとも思います、ですが、とても成功者と言われる部類にはなれそうもないし、何か違う気がするのです。

禅とは、今この瞬間です。体験の鮮度が命。すべてが現在進行形です。

数年経って、過去を振り返る前に、今を感じて生きたい。体験したこと、感じたことをそのまま書いてみたい。そのために、あえて進行形でお伝えしたいと思っています。

コーチとして独立し14年が経ちました。おかげさまで日々楽しくセッションをさせていただいています。しかし、最近コーチっぽくなっていないか。コーチくさくなっていないか。と感じるのです。

もちろん、コーチとしてプロフェッショナルでありたいとは思っています。しかし、少しコーチとしてのポジションに慣れてきたようにも思うのです。

禅の師匠である藤田一照さんを見ていると、「お坊さんくさく」ないのです。お坊さんでありながらお坊さんという枠を飛び出しているというのでしょうか。あなたは誰ですか?という感じです。恐らく禅の真髄である「なにものでもない」という生き方を実践されているのだと思います。

恐らく社会経済活動のIT化はさらに進んでいくでしょう。一方で人間はつながりなくして生きてはいけません。つながりが希薄になる中だからこそ、人は「温もり」を求めるのではないか。つながりと温かさを感じられる「心のふるさと」のような場所を作りたいと。

目的でも戦略でもなく、人とのご縁から生まれるお仕事。

コーチングと食堂。表面的に見ると、2つはまったく違いますが、私の中では深いところでつながっています。

禅をともに学ぶ修行仲間は、「今までやってきたことの実習、路上に出る感じですね」と言っていました。禅とは知識を得ることはありません。禅とは体験がすべてです。

コーチという仕事は大好きです。コーチは、客観的な視点でクライアントを見ます。しかし、いつも安全な場所にいて、クライアントさんのような苦労をしていないようにどこかで感じていたのです。後ろめたさといってもいいかもしれません。


おかげさまでコーチとして、クライアントさんに必要としていただけるようになりました。コツコツと努力を重ねてきたという自負もあります。ただ、ここまでやってきたからこそ、一度自分の自負心、肩書き、役割を外してみたいと思いました。コーチとしてではなく、人間として、新たなご縁の中で、何を体験し、何を学び、何を修行するのかを探求したいのです。

その結果として、コーチとしても、もう一歩成長できればと思っています。

今回の食堂という挑戦は、私だけでは生まれませんでした。また、女性だけでも生まれませんでした。2人の出会いから生まれたご縁です。2人の人生が出会いひとつになりました。

「幸せは与えられるものでも、与えるものでもない。ただそこにあるものです。」という言葉を思い出しました。

現場でお客様に「ありがとうございます」と大きな声で挨拶する。日々の数字に頭を悩ませ、従業員との関係に苦労する。そして、ともに作り上げていく喜びを共有する。頭で考えるのではなく、汗水垂らして働いてみる。

何かの理由があって、この挑戦は途中で終わるかもしれません。くじけるかもしれません。そのときも、ありのままを書きたいと思います。

現在進行形で生きる。

これが私にとっての修行です。

この世は、いつも変化しています。同じ状態、止まっていることがないのです。コロナ禍の中で、時代の変化を感じるという声も聴きますが、そもそもこの世界は、いつも動いているのです。

だから、自分だけが安定を求める事は、自然の摂理に反しています。しかし、人は安定が安心と思いがちです。しかし、それは本当の安心ではありません。

慣れ親しんだバランスを一度壊してみる。バランスが崩れる中で、新たな調和が生まれる。これが一瞬一瞬を生きるということではないでしょうか。

アメリカに禅をもたらした鈴木俊隆老師は「仏性の世界で生きるということは、一瞬一瞬、あなたの小さな存在として死ぬ、ということを意味しています。バランスが失われれば、私たちは死にますが、同時に私たちは、成長します。育つのです。私たちが見ているどんなことも、変化しています。バランスを失っています。なにもかも美しく見えるのは、それら一つ一つが、バランスを失っているからです。しかし、その背景は、つねに完璧な調和をなしています」と述べられています。(『禅マインド ビギナーズ・マインド」より)

そう考えれば、8年前アメリカに初めて行ったときも、日本という中での小さなバランスをぶち壊してみたかったのかもしれません。アメリカに行き続ける中で、日本とアメリカという新たなバランスが生まれてきたように思います。

クライアントさんとのセッションで「分かります」という言葉を使います。

しかし「分かります」はいつしか常套句になっていきます。過去の経験にあてはめて分かったような気になってしまいます。古い「分かります」ではなく、常に新しい言葉として「分かります」と言えるような、あり方をし続けていきたいと思っています。

今回の修行を通して、クライアントさんへの「分かりますよ」という言葉をもっと磨けるのではないか。

まことにちっぽけな望みです。でも、それしか出来ないのだと思います。

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