苦しい時を乗り切るために「智慧」で生きる デジタルからアナログへ
この一ヶ月はいろいろなことが起こりました。
私は、日々のニュースに心を奪われて、少し意識を失っていたかもしれません。極力、平常心でいようとしましたが、無理でした。
4月に入って、このメルマガを書くにあたって、何を書けば良いのか、まったくアイディアが出てきませんでした。
「見失っている。」
それがまさに今、私に起きていることではないかと思います。
こういうとき、危険な問いがあります。
「何が正解なのか?」
答えが出ず、さらに身動きできなくなってしまいます。
禅コーチングでは、こういう状況の時、問題解決にはいきません。
ただ振り返っていくことで、少しずつ曇が晴れていきます。
そこで、少しこの一ヶ月を振り返ってみたいと思います。
この1か月は、あなたにとって、どうだったでしょうか?
私は、まず、ニュースをよく見るようになりました。
日々増えていく感染者数、悪化していく世界の状況。
これからどうなっていくのか。
大勢が集まるイベントが自粛になる中で、企業でのセミナーや研修などの仕事のほとんどが中止か延期になりました。
一方で、私の場合は、1対1の個別セッションは続いています。
ただ、経済的には一気に厳しくなりました。
家にいると、いろいろ考えます。
通帳を見ながら資金の算段。
先行きが見えない中で、いかに生活を守るか。生き残るか。
感染拡大の防止のため、やってはいけないことが増えました。
出張も取りやめに。
そして、死者も増える中で、楽観的ではいられない雰囲気になっています。
世の中の空気が重くなり、言ってはいけないことも増えました。
いろいろなことに敏感になっています。
香川県では、デマの拡散が起こりました。
ある方がウィルスに感染しているというデマを流され、周囲から猛烈なバッシングを受けたのです。
その騒動はニュースにもなり、今は沈静化しました。
このニュースを見ながら、人ごとではないなと思いました。
自分がウィルスに感染することで、誹謗中傷を受けたり、差別の対象になったりすることを恐れてもいます。
感染者が急増する中で、今は万が一自分が感染するのは仕方がないとしても、高齢者をはじめ誰かに感染させてしまうことは避けたいと思っています。
敏感になるほど、危機感は増え、安心感は減っています。
無邪気ではいられない。
人に迷惑をかけてはいけない。
そうすると、いろいろなことに厳しくなります。
安易な行動をとる人達への批判など。
些細なことにも腹が立ちます。
その気持は自分にも向きます。
気がつけば、貧乏揺すりをしていました。
晩ご飯を食べているときに、妻から指摘されたのですが、まったく気づきませんでした。
そして、我に返りました。
少し心が病んできていたのだと気づきました。
散歩をしたり、こういうときだからこそ今出来ることをしようとしたりしましたが、周りで起こっている環境の影響は思ったより大きいものです。
こうした状況は少しずつ気力を奪っていきます。
少しずつなので気づきにくいですが、確実に心を蝕んでいくのです。
今は予想できない状況に立たされています。
予想することは諦める。
元気に動き回ることも諦める。
あがいても無駄。
状況を受け入れて、過ぎ去るまでじっと耐えよう。
そう自分に言い聞かせてみました。
「受け入れる心」
禅では、とても大事とされる心構えです。
確かに今、状況を受け入れず、むやみに動き回ることは適当とは言えません。でも、受け入れるだけでは無気力になっていくように感じます。
世の中全体が守りに偏っていく中で、自分も守りだけになると、守りの守りになります。いくら適切な言葉を探そうとしても出てきません。
恐らくここには、創造性がないから。
だから、メルマガも書けなくなったのだと思います。
今こそ、小さな創造性が必要ではないか。
坐禅では、静かに坐ることで、まず身体の動きを止めます。
そして、息の出入りを観察していると、波立っていた気持ちが少しずつ落ち着いていきます。
しかし、これで終わりではありません。
身体と心が鎮まってくると、さまざまな動きが現れてきます。
心臓の鼓動、肺の収縮、筋肉や骨の動き。
身体のダイナミックな動きが現れてきます。
「静の中の動」
これが私たち本来のあり方ではないでしょうか。
禅では、心は海にたとえられます。
表面の波は荒れていても、その下には静かで大きな海が広がっています。
動と静の両方が常に存在しています。
この一ヶ月は表面の波に翻弄されていました。
立っているだけで精一杯でした。
平常心でいることは無理。
未来を予想することも無理。
諦めることは諦めよう。
でも耐えて守るだけでなく、何か今できることがあるのではないか。
こういうとき禅コーチングでは、深い心の奥から発せられるメッセージに耳を傾けます。
そのメッセージの声は、とてもはかなく小さいです。
この一ヶ月の大荒れの中で、心の声が聞こえなくなっていました。
そこでまず、パソコンを閉じました。
ネットの記事を見るなどするため、パソコンの前に座る時間が増えていたのです。正直、パソコンを見るのがしんどくなっていました。
そこで、ノートを取り出してみました。
浮かんでくる想いを鉛筆で書いていると、心が静かになります。
私の場合、パソコンに書こうとすると、どうしても正解や答えを手っ取り早く求めてしまいます。
その点、ノートは自由というか枠がありません。
どこまでも想像の世界が広がっていきます。
今のような先が読めない、先が分からない、答えを出しようがないときには、ノートは心に優しい感じがします。
アナログっていいですね。
デジタルとアナログのどちらがよい、悪いではなく、やはりバランスではないでしょうか。
ノートにいろいろ書き出しながら、今、私が求めているものは「バランス」なのだと気づきました。
私は孤独が好きです。
でも、その孤独は社会とのつながりがあるからこそ。
今のように社会とのつながりが断たれてきた状況では、孤独が孤立になっていきます。
そこには、創造性はありません。
リアルなつながりは無理でも、今はオンラインがあります。
少人数の会をオンラインで開催することにしました。
テーマは特になく、とにかく仲間達と心を交わす機会になればと思い立ちました。
これは私にとって小さな「動」です。
今までは、冷静に物事を捉えていました。
もともと輪の中に入るのは苦手ですし、坐禅をする中で、自分をより客観的に見られるようになってきたからかもしれません。
しかし、今の状況では、冷静さを通り越して、冷めた目になってしまいます。正直、テレビに登場するコメンテーターの評論家的な発言にもウンザリしています。
自分は、少しがむしゃらに戻ってみようと思います。
格好悪くていいので、何かを懸命にやってみようという気持ちです。
今回は原稿が長文になっていますね。
今は、過去の延長ではありません。
こういうときに必要なのは、知識ではなく、智慧なのだと思います。
智慧が生まれる心でありたいと私は思います。
明けない夜はありません。
調べてみると、この言葉は世界共通でした。
the night is long that never finds the day
これはシェイクスピアの『マクベス」の中の台詞で、「明けぬ夜はない」と日本語に翻訳されたと言われているものだそうです。
まるで夜明けが来ない長い夜のようなひどい時代だと思っているが、必ず夜明けは来るという文脈で表現されています。
Even the darkest night will end and the sun will rise.
(どんな暗い夜も、いつかは明けて日が昇る)
フランスの詩人・小説家、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に登場する文です。
There is always light behind the clouds.
(雲の向こうはいつも青空)
『若草物語』を書いたアメリカの小説家、ルイーザ・メイ・オルコットの言葉です。今つらくても、必ず光がさすでしょう、という表現です。
そして、私が今聴きたい歌、ミュージカル『Annie』の中の一節。
The sun will come out tomorrow.
今はどんなに辛くても、明日になれば太陽は昇るという希望を忘れないという、その純粋さに感動を覚えました。
今、世界の人々が真っ暗な中で、夜が明けるのをじっと耐えて待っています。
必ず、この危機は収束します。
収束した後、あのときの自分はなかなかだったと言えるような自分でありたい。
そう考えると、希望が湧いてきます。
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