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言葉にならない気持ちがある 悲しみと生きよう

先日、胸が締め付けられるような感覚が起きました。私の中では、よく起こる馴染み深い感覚です。

すると、すぐに頭が言葉に変換してくれました。

「寂しくて苦しいのだね」

「原因は今、仕事で起きていることかな」

いつもだったら、その通りだと納得していたでしょう。そして、どうすればよいのかと思案を巡らせていたかもしれません。

しかし、この日は違いました。

「今起きていることは、本当に寂しさなのだろうか」という疑問が湧いてきたのです。「寂しい」という言葉で合っているのだろうか。

何か違うのではないか。

一度、言葉をリセットしてみることにして、あらためて今自分の中で起こっていることをただ感じてみました。

すると、確かに何かが胸の辺りには起こっています。しかも、心地よくはない何かが。感じてみると、お腹や肩も、なにか固いのです。

起こっていたことは、そういうことなのです。

人はすぐに言葉に変換しようとします。しかし、その言葉はあなたの中に起こっていることを、そのまま表現していないことがよくあります。

でも、頭は懸命に言葉にしようとします。過去の状態に当てはめて、こんな感じだろうと推測して言葉にしてくれるのです。

それを人は真実だと受け止めます。自分の中から湧き上がってきた言葉だから信じるのが当然だと。

これは言葉から自分の感情を特定している状態です。

また、言葉のラベルを貼るだけではなく、その原因を特定しようとします。この感情はなぜ起きたのか。どこから来たのか。何が悪いのか。誰が悪いのか。どうすればよいのか。

これがさらに混乱に拍車をかけます。

まず、ラベルを貼った言葉が本当の気持ちとは違っているかもしれません。そして、そのまま原因を特定しようとすると、いつものループに入っていきます。

最初にお伝えした「苦しくて寂しい」は、私のいつものループといえます。

言葉になった段階で、問題は違っても、同じ結論になりがちです。それは、起こっているそのものではなく、すべて頭の解釈だからです。頭は、カテゴリー分けしてくれる働きがあります。

ただ、その分け方は、結構雑で粗いのです(笑)



禅では、「ありのままに見る」ことが修行とされていますが、最近ようやくそのいわんとすることが少しだけ分かってきました。

起こっていることと、言葉でラベルを貼った表現は違うかもしれません。

では、起こっていることをありのまま見るには、どう情報を受信すればよいのでしょうか。



まずは、何かが身体の中で起こっている状態をただ感じましょう。もしラベルを貼ってしまったら、それはそれで受け止めて、そのラベルを一度剥がすのです。

そして、また自分の中に起こっていることに戻りましょう。



不思議なことに、名前を決めず、原因を特定しないことで、今までとは別のことが起きてきます。

それは、いきなりスッキリするとか、問題が解決されたということではありませんが、言葉にはならない変化が現れます。



禅の師匠である藤田一照老師は、次のようにおっしゃっていました。

「人の心はザルのようなものです。頭での解釈はかなり目が粗いので、大事なものがザルから流れ落ちてしまっています。すぐに解決するのではなく、ただ眺めていると、ザルの目がだんだん細かくなっていきます。そうすると、いろいろなものがザルに残るようになります。ザルの目が細かくなるというのは、心の目の画像度を上げるようなもの。問題だと考えているもののありのままの姿を見えるようになるのが修行です」



心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

随筆家の若松英輔さんは著書「悲しみの流儀」の中で、新古今和歌集の中に出てくる西行の歌を無心の表現として紹介しています。
―――
「心なき」とは心の奥の心であり、無心を表現する言葉である。私のこころは何も感じなかったとしても、その奥に潜むもう一つの心は、いつも世界の無音の声を聞いている。

無心とは心がなくなってしまったことを指すのではない。私心が極限まで無化された状態にほかならない。それは同時に創造の力にあふれた「無」の世界である。
―――

世界の無音の声を聞いている心の奥の心。この無音の声の受信機は、頭ではなく身体です。

坐禅は、全身で世界の情報を受信する訓練です。だから、最初は何も聞こえていないように感じます。だから手応えがありません。

逆にいえば、手応えがないから無声の声を聞いている、ともいえます。聞こえたと分かった時点で、それは無心ではないですから。



最初にお伝えしたように、胸が締め付けられるような感覚について、言葉は「苦しい」「寂しい」とラベルを貼ってくれました。

しかし、その胸が締め付けられる感覚を言葉にせず、そのままにしておくと、さまざまな身体の反応が生まれていることが分かりました。

ずーんと重くなったり、ビクッとなったり、真っ黒なものがお腹の中を覆っていたり。

ただその感覚とともにいると、いつしか涙が出てきました。

誤解がないように申し上げると、私は普段まったく泣くことはありません。涙が出てくるのは、映画をみたときぐらいかもしれません。


これは悲しみではないだろうか。


若松さんの本を読みながら、そう直感しました。

今まで、すぐに言葉に変換することで、悲しみに出会ってきませんでした



以下の文章は、その直後に湧いてきたメッセージを書き留めたものです。

悲しみに蓋をしないこと。

胸が痛むとき、胸が張り裂けそうなとき、それは悲しいとき。

悲しみとともにいること。

それは、沈黙しかない。

沈黙はあなたの心の奥にある「こころ」が声なき声を聞いているということ。

そういうとき、人は悲しさに包まれている。

心からは「私など、なんの価値もない人間だ」と罵っている声が聞こえる。

そんなとき、人は悲しいのだ。

絶望に打ちひしがれているとき、「こころ」には、きっとかすかな光が見えている。

人はそれを希望と呼ぶ。

でも、希望など本当は見えない。見えないから希望なのだ。


私たちは普段、生まれてきた感覚に言葉というラベルを貼ります。そういう働きを持っているのです。

禅の修行は、ラベルを剥がす方向です。あるいは、ラベルを貼らないトレーニングです。なので、普段のあり方とは逆の方向といえます。

「この感覚はなんなのだろう」という視点で、観察しなおしてみるのです。うまく言葉にしようとする必要はありません。言葉にならなくていいのです。よく分からなくていいのです。

その視点そのものが無常であり、無心という働きへの方向です。

ただ、沈黙を味わう。

どこかで、そんな時間を持ってみてください。何が起こってくるでしょうか。



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