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『けんかえれじい』 北一輝の登場シーンは戦慄。鈴木清順監督のフィルム歌舞伎。

評価 ☆☆



あらすじ
旧制第二岡山中学校の生徒だった南部麒六は夢見がちで柔らかい物腰の学生だった。ところが、憧れの女性・道子さんを馬鹿にした上級生たちとケンカになって上級生たちを叩きのめしてしまう。様子を見ていた同校OBでケンカの達人であるスッポンは、麒六の才能を見込んでケンカの極意を伝授する。



最近、あまり映画館で映画を観ることがなくなった。僕が学生の頃にはビデオがそんなに普及していなくて自宅で映画を観ることができなかったから、いそいそと映画館に通っていた。そこでは毎回ではないにしても面白いこともあった。信じられないようなこともあった。時には涙を誘うようなエピソードがあったりもした。もちろんここでは話せないようなこともありました。



ビデオが普及して、レンタルショップが立ち並び、映画館は衰退した。僕も映画館に行かなくなった。最近ではシネマコンプレックスが登場したことで、映画館に行こうというひとが増えてきたらしい。良いことだ。僕は映画館が好きだ。少なくとも街にゲームセンターが増えるよりも映画館が増えたほうがいい。そう思いませんか?



どうして映画館が良いのか? 映画はみんなで観ると、ひとりのときとは違った見方ができる。



『けんかえれじい』は1966年公開のモノクロ映画。監督は鈴木清順。出演は高橋英樹、浅野順子など。フィルム歌舞伎と呼ばれている。観たらわかると思うが、映画のいろんなシーンに舞台みたいなアングルが入っている。ミエを切る場面なんかもある。これって大画面じゃないとわからない。歌舞伎を観にいった人ならわかると思うが、ミエを切るシーンになると観客から「○○屋!」と声がかかる。いわゆる「大向う」である。この声をかけるひとたちは何度も芝居を観ているから、非常に効果的に芝居を盛り上げてくれる。



僕が文芸座で『けんかえれじい』を観ていたら、映画でこれをやられた。複数の人たちがしっかりと。サクラだったのか、それとも本当に清順映画の「大向う」の人たちかわからないけれど、最初はびっくりした。だってさ、映画館で映画を観てて誰かがそんな大声を出すことなんてないじゃないですか。



それがぴったりと画面に決まるんです。さらに場内は大拍手。すごく感動したのを覚えている。「映画ってのは、これほど一体感があるものになるんだ」という体験だった。マニアによるマニアたちの世界が作り上げた一瞬かもしれない。



よく考えると、これができるのは歌舞伎に近い演出をしている『けんかえれじい』という映画に限定される。しかも、マニアばかりが集まった文芸座の鈴木清順特集でないとできないだろう。大島渚とか、市川崑(最近がんばってますね。オリヴェイラみたいですが)とかの映画じゃできません。こういう体験ができたのはラッキーだった。でも、映画館ではいろんな体験があります。



映画の内容に関しては、鈴木清順らしからぬというか、非常にわかりやすいし、面白い。新藤兼人が脚本だと知って驚いた。また音楽も山本直純なんですね。まさにエンターティメントに溢れた映画。鈴木清順監督らしいユーモアが随所にあって、笑いながら観ることができる。喧嘩に明け暮れる青年がケンカと恋を両立させながら悩みつつ、いつしか戦争に駆り出されるまでを描いている。



後半で、北一輝が登場するが不気味で素晴らしい。ちなみにこの緑川宏という俳優はその後北一輝と同様自殺している。緑川宏の存在感と清順演出が極まった感じだ。ちなみにこの映画モノクロで、その独特のフィルムの明暗度が印象的である。後年の『ツィゴイネルワイゼン』の玄関シーンに通じる怖さも感じられる。



余談ですが、僕が映画館で見た『けんかえれじい』はフィルムのオープニングタイトルバックがズタズタに切れていた。何度も何度も上映されて劣化したのだろう。まるでヌーヴェルバーグのジャンプカットみたいだった。



映画をよく観ている友達もこのタイトルバックのことを気にしていて「もしかしたらオリジナルもバチバチ、オープニングカットをわざと切ってるんじゃないか? 清順ならやりかねない」なんて話していた。DVDの普及していないころの平和な伝説だ。もちろん、後年になってそうじゃないことが判明したのだが。



こういう伝説も「清順ならやりかねない」という前提に立っている。おそるべし鈴木清順。



初出 「西参道シネマブログ」 2006-05-02



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