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『I AM SAM アイ・アム・サム』 ビートルズの曲に大いに救われている。ダコタ・ファニングにも注目。

評価 ☆☆



あらすじ
サム・ドーソンはスターバックスで働く、7歳程度の知能しかない知的障害者だった。そんな彼に娘が生まれた。サムは彼女に大好きなビートルズの曲名から取ってルーシーと名付けた。ルーシーの母親は姿を消してしまった。サムは慣れない子育てに悪戦苦闘する。



最近の映画CMを観ていると、一般客らしい人が登場して「泣けました~」というパターンが多い。評論家たちの意見はもう誰も信用しないから、今度は一般の客を利用しようと配給会社の策略。もちろん、配給会社は映画を売るための努力しているので「この映画は面白くないから観ない方がいい」とは絶対に言わない。あのひとたちも仕込みで、一般人ではないかもしれない。



「この映画は駄目です。観る暇があったら別の映画観ましょう」なんて風に取り上げられるメディアには、配給会社は写真も貸してくれないし、資料も渡さないし、試写も呼んでくれない。配給会社だけなくて情報誌レベルでもそうだ。



「つまんない」という記事を書こうものなら次から仕事がない。配給会社と情報誌は同じ穴のムジナである。TV局だってそう。メディアに載っている、特に試写を観た芸能人とか評論家の意見は絶対にあてにしない方がいい。ブログやツイッターなどの方がまだ健全である。



映画の話をしよう。2001年に公開された『I am Sam アイ・アム・サム』はさほど面白いとは思えない。出演はショーン・ペン、ダコタ・ファニング、ミッシェル・ファイファーなど。監督はジェシー・ネルソン。子役のダコタ・ファニングは悪くない、ショーン・ペンはちょっとオーバーアクション気味。ミシェル・ファイファーもやりすぎ。



ただし、ビートルズのアレンジを施された音楽にかなり救われている。これが素晴らしい。「two of us」や「black bird」のアレンジはよく出来ている。やっぱりビートルズって凄いんだな、というのがよく分かる。



監督であり、プロデューサーであるジェシー・ネルソンは、いろんな要素を詰めすぎたようだ。消化不良を起こしている。ルックに一貫性はないし、色彩にも統一感がない。カラーのタイミングを間違えてるんじゃないの?



『I am Sam アイ・アム・サム』は悪くない部分もある。特に子供を育てている親からすると、育児がいかに大変で同時にすばらしいかは伝わってくる。人間はささいな喜びのために大きな苦労をしている。



テーマはいい。役者の演技はどこかオーバーアクションで嘘くさい。演出は粗い。音楽はいい。名作になり損なった映画である。



泣けるか? と聞かれたら「微妙」と答える。映画を泣く、泣かないで判断するのはどうかとも思うけどね。単純すぎる。泣ける=いい、って図式の排斥運動をしたいくらいだ。



追記



この映画のプロデューサーはエドワード・ズウィック。いわずとしれた『恋に落ちたシェークスピア』の製作者でもある。『恋に落ちたシェークスピア』のアカデミー賞受賞の裏側は有名であるよね。ただ、彼は監督としての才能はある。間違いない。でも、製作者としては意外と良くない。



続 追記



「映画はそのひとの感性で観るものなんだから、否定しないで」という声を聞く。であれば「否定するのも、こっちの感性(だけじゃないけど、まぁいい)なんだから邪魔するなよ」とも思う。反論したければ、反論するだけの文章力が必要だし、同じようにそれをどこかで発表すればいいのに。文章力不足なのでは? 勉強を怠っているだけである。



他人を非難する時間があったら自省したほうがいい。また、他人の意見にイラッとくるのは、その意見が実は的を射ているということも多い。少なくとも僕はそう思っている。



初出 「西参道シネマブログ」 2005-05-28



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