『インセプション』 ラストシーンの意味するものは簡単。複合的だがわかりやすい。『市民ケーン』を引用。
評価 ☆☆☆☆
あらすじ
心の中で秘密を探り出す「エクストラクト」。コブとアーサーはサイトーを説得しているが、建物全体が揺れ始めた。サイトーは消え失せ、なぜか元妻のモルが登場する。モルの誘惑を断ち切ルト、今度はアーサーを人質にとったサイトーとモルが現われた。ここはアーサーの夢の中だった。
それにしても、こんな刺激的な作品と出会うとは思わなかった。『インセプション』は多分、ここ10年の中でも極めて完成度の高い作品。2010年公開。監督はクリストファー・ノーラン。出演はレオナルド・ディカプリオ、渡辺謙など。さまざまな意味でハリウッドの底力を見せつられたように思えた。
この映画は日本では絶対に作れないだろう。もちろん、クリストファー・ノーラン監督の才能ありきではあるのだが。
ネットで調べてみたら、ラストシーンを含めて物語の構造で物議を醸し出しているらしい。このあたりは検索してください。僕は別の視点からこの映画を論じてみたい。
まず、映画とは何だ? 視覚的刺激とあるいはそこから派生する予感が大きな要素であることは間違いない。ひとが誰かに刺されそうになる、高い場所から落ちそうになる、街が崩れそうになる、おぼれそうになる、何かが爆発して吹き飛ばされそうになる、など、その瞬間にひとは「アッ」と声を出す反応を示す。
同時に客観的な視点でその映像を愉しむ。『インセプション』はこの複合的視覚刺激に満ちている。見たことのない映像で我々を刺激する。それらは極めて美しい。
CGを最小限に押さえているところも良い。リアルさにこだわっている。予告編でも有名なパリのカフェで周囲の物体が次々と爆発するシーンは美しい。これらの映像は一流のスタッフなしには作ることができない。潤沢な予算も必要だ。この映像を観るだけで『インセプション』を鑑賞するだけの意味はある。
俳優たちも面白い。渡辺謙は良い。ハリウッドの中でも際立った存在感だ。僕は個人的にマイケル・ケインが出てきて嬉しかった。
みんなが悩んでいる物語の構成に関して。現実世界+多重構造になった夢を表現している。その各層がルックによって計算されていてわかりやすい。僕には難解には見えなかった。むしろ、複雑な話をよくここまでわかりやすくしたものだと思う。僕だったらもっと複雑なままやっちゃうだろう。
ラストに関してだが監督は丁寧に描いている。わからない人が多い。『インセプション』のラスト、誰の顔がラストに来ているかを考えれば、すべてが解ける。ここまで細かく描く監督がラストに持ってくる顔を誰にするかで間違えるわけがない。映画は常に視覚的なものだということをよくわかっている。ほら。わかったでしょ。
もうひとつ。インセプションのエンドタイトルバックに注目にも注目したい。なぜ「INCEPTION」の文字が二度登場するのか。「INCEPTION」の文字に挟まれた登場人物はひとり。彼が本当の意味でインセプションされた人物という、至極丁寧な作りになっている。
最後に付け加えておこう。成功者と幼年期の物語と言えば『市民ケーン』である。この映画のコアには『市民ケーン』がある。だが、さすがノーラン監督。本来ならコアとなる素材をあえてサブと考えて処理している。映画や本など、様々な物語の中で何度も繰り返し登場してきた“和解と記憶”のテーマをインセプション(植え付け)=人工操作だとしている。つまり、テーマそのものが人工操作である、と。
この映画は何を描いたか? 端的に言えば嘘と現実。虚構と現実と言っても良いかもしれない。その違いに大差などない。夢か現実かの差に我々はそこまでこだわる必要があるのか? じゃあ、逆に質問しよう。映画体験は虚構なのか、それとも現実なのか。そういう問いこそが映画そのものである。
こんなふうに解説するのも何だかな、って感じがする。
初出 「西参道シネマブログ」 2010-05-31
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