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『マトリックス』 タイトルは数学の行列を意味。物語にオリジナリティは存在するのか?

評価 ☆☆☆



あらすじ
警察は男女の会話を盗聴していた。女性はトリニティという名前で、彼女の部屋に踏み込むが、カンフーの技で撃退される。そこにエージェントと呼ばれる黒服の男たちが踏み込んできた。彼女は即座に逃げ出す。エージェントたちも彼女を追った。



映画『マトリックス』は1999年公開の、ラリー・ウォシャウスキーとアンディ・ウォシャウスキーの共同監督作品。主演はキアヌ・リーブス。 ローレンス・フィッシュバーンやキャリー=アン・モスが出演している。



この映画はオリジナリティなのか? そもそもオリジナリティとは一体何なのか? “マトリックス”や“ザイオン”といった概念や言葉そのものはウィリアム・ギブソンの小説「ニューロマンサー」の引用である。ストーリー全体の構成は、使い古されたSFと映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』を利用している。アクションは香港のワイヤーアクションを元にしているし、目立ったのはバレットタイムくらい。



だからといって、この映画がつまらないか? というとそんなことはない。出来としては素晴らしい。80年代サイバーパンクのひとつの集約の形として考えることもできる。ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」が映画化されるとすれば、このようなテイストに近いかたちになったはず。



神なき世界での救世主伝説と考えることも可能だろう。コンピュータあるいはヴァーチャルネットワーク社会での幻想(ギブスン著書『カウントゼロ』ではさらにゴーストが登場する)として、メシアと救済の物語と読むこともできる。



ウォシャウスキー共同監督たちの映像に対する飽くなき挑戦という意味でも、この映画を評価したい。バレットタイムの発明は、これまでの映像の発想を大きく変えることになった。さらに、この映画のダークな未来像は、現代人の心象風景である。マトリックスは実感を得ることのできない現代人が持つ「世界との違和感」と“共感”を示している。



繰り返すようだが、新しい価値観はない。新しい風景もない。ノスタルジックなものばかり。ちなみに映画タイトルは、高校数学で勉強する「行列」を意味している。長方形状かつ格子状の数字の配列のことで「コンピューターが支配する仮想現実空間」も小説「ニューロマンサー」で定義されている。



共感さえできれば、この世界にすんなりと入ることができる。共感できなければ拒否される。共感の前提には、ある程度の、これまでに似た体験あるいは感覚を持っていることが必要になるし、そう考えると『マトリックス』自体が、これまでの映像のコラボレーション=共感の集積でもある。



それは本当のオリジナリティなのか? 映画とは引用の集積でしかないのか? この問題は『マトリックス リローデッド』へとつながっていく。



追記



さらに『マトリックス レボリューションズ』も公開され、マトリックス3部作となって一応の完結となった。全体を通しても新しさはあまり感じられない。



むしろ、萩尾望都の漫画「百億の昼と千億の夜」の方が数段素晴らしい。この漫画の中にゼンゼンシティという街が登場する。その街は、市民全員が培養チューブで繋がれ共通の夢を見せられている。『マトリックス』を観た時、普通に「ゼンゼンシティ」を思い出した。ある年齢を超えた日本人にとって、この程度の設定は、そのくらい普通の概念なのだ。



初出 「西参道シネマブログ」 2005-08-26



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