R_B < Part 5 (6/7) >
統の目がゆっくりと開き、芥は安堵の溜め息をついた。
「……気分、どうだ?」
目の焦点が合った事を確かめてから、静かに声をかける。
「……ここは?」
「休憩室。お前、さっき作業場で倒れたんだ」
「倒れた……俺が?」
ぼんやりと視線が天井に移り、そのまま黙り込む。未だ記憶が混乱しているようだった。
「……思い出せねーや」
大きく息をつき、一言。情けねーなとぼやく彼の頭を芥はそっと撫でた。
「じきに落ち着く、心配するな。頭を打ってるようだから、まだ横になってろ」
「……芥、仕事は?」
「終わってるよ。明日も夕方からだし、何も気にしなくて良い」
「そっか……わりーな」
「謝るなって」
「うん……」
空間を再び静寂が包む。統は未だ完全に目が覚めた訳ではないようだ。時の狭間でまどろんでいる。
……仕事を終えた芥が統の携帯に連絡を入れれば、向こうから聞こえてきたのは翔の動揺した声と、床を蹴り叩くような鈍い音。
『山吹さん……統が!いきなり自分の首を絞めて……!』
それだけで、芥には十分過ぎる情報だった。
(……フラッシュバックか!)
彼は、直ぐさま彼に指示を出した。
『生成君、落ち着いて……今の状態は数分で収まる筈だ、大丈夫。
先ず、周りに工具とかあれば遠ざけて。心配だとは思うけど、今は見守りに徹してくれ。無理に彼を押さえつけたりしないように』
統にかけた電話を翔が取った……つまり彼は、前後不覚に陥っている統の間合いに一度入った訳だ。ほぼリアルタイムで芥が状況を把握出来たのは幸いだったが、彼が今、再び統に近づくのは危険だと感じた。
下手をすれば事故に繋がりかねない……万が一の事態は避けたかった。
『……分かりました』
『通話は切らずにこのままで。僕は今、そっちに向かってる所なんだ、あと10分ぐらいで着く。すまないが、もう暫くそこに居てやってほしい』
『了解しました。助かります』
それから程なくして彼は意識を失い……休憩室のベッドに運ばれたところで芥が到着した。
赤い携帯を握りしめてベッドサイドに立ち尽くす翔に、芥は感謝の言葉を述べる。続いて用意しておいた統の偽の経歴を手短に説明すれば、緊張で強張っていた翔の表情が漸く緩んだ。
『そうですか、海外で……。以前の話とかしないほうが良かったですね』
『君は悪くない。寧ろ彼がそんな事を君に言ったのが驚きだったけど、それも君を信頼している証拠なんだろうな……って僕は思ったよ』
『ありがとうございます……でも、誰でも色んなモノを背負って生きてるって事を俺、忘れてたんです。軽率でした。以後気をつけます』
神妙な面持ちで真摯に詫びる青年に、芥は微笑んだ。
『あまり気に病まないで。こっちこそ、色々と気を使わせちまって悪かったね……でも、君が対処してくれて本当に助かった。もう大丈夫。ありがとう』
その言葉を聞いて、翔にも笑顔が戻る。『じゃあ、俺はこれで』と立ち去る背中を見送った芥の眉根が、少しだけ寄った。
……彼も、人知れぬ悩みや苦しみをその背中に負っているのだろう。
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「おかえり、芥。統クン」
帰宅したのは真夜中、0時過ぎ。芥からの連絡を受けていた彩は、玄関まで2人を出迎えてくれた。
「ただいま。遅くなっちまったね」
「良いの、何も無ければそれで……少し何かお腹に入れる?統クン」
体温を測るかのように、彩がそっと掌を彼の頬に当てる。その柔らかい感触と、何よりも自分を心配してくれる優しさに涙が出そうになり、統は暫し目を閉じた。
「……うん。もらう」
これを言うだけでも語尾が震えそうになる。大丈夫と言う代わりに笑顔を返せば、彼女も安心してくれたようだった。
「OK。すぐに温めるわ。食べられるものだけ適当に食べたら良いからね。芥も食べるでしょ?」
「ああ。そうしたら先に荷物だけ片付けてくる」
鞄を手に、芥は統を促して部屋に連れて行った。
彼を椅子に座らせ、自分も床に腰を下ろす。
「……気分は?」
改めて尋ねれば、微かな笑顔が浮かんだ。
「ちっとテンション低いけど、どうもねーよ。俺、さっきはかなり暴れたんだろ?だからその反動って感じ」
「頭痛とかは」
「無い。吐き気もねーし、大丈夫だって……それより、翔は?」
車中では互いに殆ど話さなかった。統は……眠ってはいなかったが、窓の外、後方に流れ去っていく景色を黙って見つめていた。それで芥も話しかけるのを止めていたのだ。
「何とも無い。突然倒れたから驚いてはいたけどね」
「怪我してねーよな?あいつ」
「かすり傷一つ無い。怪我はお前の腕だけ」
「……良かった」
小さく息をつき、自分の右腕にそっと触れる。
そしてポツリと言葉を零した。
「あんな事ってあるんだな……アイツが出て来た。目の前に」
吐息に紛れて消えてしまいそうな、小さな声。
「思い出したんだ?」
「ああ」
「アイツって?」
「……黄丹」
芥の背筋を一瞬、冷たい感覚が走り抜ける……が、表情は変えずに言葉の続きを待った。
「翔がヤツにすり替わったんだ。そんなワケ無ぇって思っても消えなかった。幻覚だって言い聞かせても、どーにもなんなくて……あいつを壊しちまいそうになった……そんなコトしたら、あんたの世界も壊しちまうって分かってたのに……」
(だから、自分を……)
芥には分かった……それが極限まで追い詰められた彼の、必死の抵抗だったと。
「大丈夫だ。何も壊れてないし、誰も傷ついてない……ありがとな、そんなに俺達の事を考えてくれて。お前も無事で本当に良かった」
「けど、俺」
首を横に振ろうとする彼をそっと手で制し、芥は再び口を開いた。
「今のお前の話を聞いて確信した事がある。黄丹は、俺達の心に杭を打ち込んでいったんだ」
「杭?」
「そう。詛いと言う名の」
「……どんだけヤベーんだ、アイツ。悪魔の手先かよ」
頬を引き攣らせながら、それでも茶々を入れてくる統に、芥も薄く笑い返して話を続ける。
「詛いの“正体”が何なのかは永遠に分からないけど……実は俺も、この世界に戻ってから彼奴の幻影に苦労した時期があった。
他の世界にも跳んで、色んな人と出会って印象に残る事だって沢山あったのに、戻って最初の半年くらいは彼奴しか記憶に残っていなかった……黄丹だけが、繰り返し現れたんだ」
意外だと言った様子で、統は小さくため息をついた。
「……そんな後から“来やがった”のか」
「ああ。俺の場合は窒息って言うか、絞め殺される感じで……今までは俺だけのトラウマみたいなモンだと思ってた。だけどお前の話を聞いたら、もう彼奴が何かを俺達に仕掛けたとしか考えられない」
芥と黄丹はほんの数ヶ月間、しかも僅かな関わりしか無かったのに、あれ程のインパクトを遺す人物なのだ。何年も彼の支配下にあった統が、精神の奥深くにまで影響を受けていてもおかしくないだろう。
「何が何でも、俺達を潰したかった……?」
「何年かかっても、な。それが彼奴の最期の願いだったのかもしれないけど」
「願い?迷惑の間違いだろーが」
「そうだな。迷惑この上ない話さ」
必死で藻掻き、振り切った筈だった……それでも絡み付いてくる黄丹の執念に怖気が走る。思わず不安が統の口をついて出た。
「仁とか誠も……大丈夫なんかな」
そんな彼の肩を、芥は笑顔でぽんと叩いてやる。
「大丈夫、信じよう。お前もちゃんと撃退出来たんだし」
「撃退……?」
「だってお前、自分ひとりの力で乗り越えて無事に戻って来たじゃないか。しかも誰も傷つけずに。そうだろ?」
良く頑張った、さすがだなと頭を撫でられた。
暖かく優しいその手に心が安堵で満たされ、今しがた感じた不安が遠くに去るのが分かる。
「……ありがとう。そんな風に言ってもらえるなんてな」
統は彼の手をとり、顔を上げた。
「けど、そいつぁ俺の力じゃねーぜ。力をくれたのは芥だ。あんたのお陰でヤツに飲み込まれずに済んだ」
澄んだルビー色の瞳が、真っ直ぐ芥を見る。
「それに俺でも跳ね返せたくらいショボい詛いなら、仁なんか一瞬で蹴散らしちまうよな。誠だって……うん」
言って、統はニッと笑った。
「俺も、皆を信じる」
互いに笑顔で拳を軽くぶつけあい、ひとつ頷く。それで全てが伝わる。
「……いっけね、メシ!」
なかなか戻って来ない2人を呼ぶ彩の声が聞こえ、統は弾かれたように立ち上がった。早く行こうと芥の腕を引く。
「ああ。俺、上着だけ直してくるから先に行ってくれよ」
「じゃあお先に。ゴメン彩さん、今行く!」
返事をしながら部屋を出て行く彼の背中を見送り、芥も腰を上げた。
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天井近くの窓から差し込む朝日の光で、統は目を覚ました。
「どんどん夜明けが早くなるなー。面白れートコ」
すっかり見慣れた天井を眺めながら数えてみれば、此処に来てから3ヶ月が経とうとしていた。
「今日は、電車……9時42分。よし」
携帯を手繰り寄せ、メモしておいた時刻表を確認しながら起き上がる。
芥は出張で一昨日から1週間不在。この日は久々に電車で作業場に向かう事になっていた。初めて乗った時はラッシュに巻き込まれ酷い目に遭ったが、数回乗れば要領も掴めてきたと思っている。朝食後に片付けを手伝い、軽く運動してから9時過ぎに家を出るパターンがベストだ。
「そろそろかな……行こ」
キッチンに人の気配。彩が朝食の用意を始める時間だ。いつも統の帰宅に合わせて食事を準備してくれる彼女には感謝しかない。せめて自分が家に居る時には、何でも手伝いたかった。
身なりを整えてキッチンに向かう……と、ドアの向こうで鈍い音が響いた。
「彩さん!?」
急いでドアを開けると、椅子に片手を掛けた状態で倒れ込んでいる彩が視界に入った。顔色が悪い。
「大丈夫か?しっかり……」
抱え起こそうとして止められる。焦る統に、彼女はそれでも気丈に話しかけた。
「ゴメンね、統クン……お腹、痛くて……気をつけるように、って言われてたんだけど……」
「え。ちょ、えっ……どうすりゃ……」
落ち着けと自分に言い聞かせる程に気が焦る。そんな彼を宥めるように、彩はうっすらと微笑んだ。
「心配させてゴメンね。でも病院へ行けば大丈夫……悪いけど、そこに電話番号メモしてあるから……かけてくれるかな」
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「今はとにかく安静です。点滴はしばらく続けます。あと2~3週間経てばだいぶ安心出来ますから、頑張ってくださいね」
「はい。よろしくお願いします」
結局、彩はそのまま入院となった。
説明を終えた看護師が退室すると、統は壁際の丸椅子にへなへなと座り込んでしまった。緊張の糸が切れたらしく、両肘をついて上体をやっとの事で支える。
「大丈夫?」
「ああ……何か、腰がぬけたってーの?」
逆に心配され、彼はガリガリと頭をかいた。
「こんなに焦ったの初めてかもしんねーや。大変なのは彩さんのほうだってのに俺がこのザマで……何か情けねーって言うか、申し訳ねーって言うか」
「全然そんな事無い。キミが居てくれて、とっても心強かった」
そこで一旦言葉を切ると、彼女は空いている右手で彼をベッドサイドに招き寄せた。請われるままに歩み寄れば、直ぐ横の椅子に掛けるようにと促される。
「何か?」
頼み事でもあるのかと少しだけ身を乗り出す。すると彼女の手がスッと伸びてきて、統の頭を撫でた。
「え……」
「ホント、ありがとね。私一人だったら絶対パニクってたと思うし、どうなってたか分かんないわ」
突然の事に固まっている彼の頭を、彩は再びぽんぽんと撫でる。
「みーんな、キミのおかげ。キミが、この子と私を守ってくれた。ありがとう」
[……お前は、そのままが良いんだ。こんなのは理屈じゃねぇ……]
彼女の言葉に、敬の声が重なった。
(俺が……守った……)
顔面蒼白の彼女の姿に動転し、震える指で電話をかけるのが精一杯だった。救急隊が来てからも、隣に付き添う事しか出来なかった……だが彼女は心強かったと、守ってくれたと、そう言ってくれた。
何の力も無い自分。それでも。
(守れたんだ)
芥にとって何よりも大切な存在を。
「……うん。俺のほうこそ、有難うな」
「え?」
今度は彼女がキョトンとする番だった。彼の頭から手が離れる。
「キミがそう言うのって変じゃない?助けてもらったのは私……」
「変じゃねーよ。俺ン中じゃあ、そーなんだ……とにかく無事で良かった」
彩の手を自分の両手でしっかりと握り、そこに額をコツンと当てる。滲みそうになった涙は、流石に見られたくなくて。
「……しばらく起きらんねーのってしんどいと思うけど、頑張ってくれよな」
「うん、モチロン。ありがとね」
その返事を聞き、統はもう一度彼女の手をしっかりと握って頷くと、サイドテーブルに置かれていた入院案内パンフレットを取って立ち上がった。
「よっしゃ!そしたらコレ借りるぜ。家から必要なモン取って来るからさ」
「え、でも統クン、お仕事……」
「何言ってんだ、今は彩さんの事が先だろ。俺のほうはどうとでもなる、心配要らねーよ。あ、追加するモンとか思いついたら電話してくれよな!」
言うが早いか、彼は病室から飛び出して行った。
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芥が出張から戻ったのは、それから2日後の夜。
病院からの連絡を受けた彼は一旦戻ろうとしたが、しばらくして彩から無事だと連絡が入り、仕事のキャンセルをギリギリで思い留まった。
『統クンが付いてくれてるし、もう落ち着いたから慌てなくて大丈夫。ちゃんとお仕事してきてちょうだいね?』
そう言われても、直に顔を見るまでは気が気でない。結局、彼は予定を1日早く切り上げて病院に直行した。
「お疲れ様。大丈夫?」
スーツケースを持ったまま息を切らせて入って来た芥に、彼女は軽く右手を上げて挨拶した。
「そりゃこっちのセリフだよ……無事でよかった。どう?調子は」
「どうにか行けてるみたい。動けなくて退屈……ゴメンね、心配かけて」
「俺こそ、大変な時に付いてられなくて悪かった」
「ううん。お仕事ご苦労様」
上着を脱ぎながら、芥は室内を見回す。
「……統は?」
「作業場に行ったわ。さっき寄ってくれて、ここは7時過ぎくらいに出たかな?あなたが帰って来るから今日は泊まり込みでやるって言ってた」
「そっか。あっちも大詰めだし」
「一応完成はしてるそうよ。でも統クンって凝り性って言うか、職人さんね?絶対に途中で故障しないようにするって、なんかすごく頑張ってる」
「あー、確かにアイツそういうトコあるなー」
ベッドサイドに腰掛け、彩の手をさすってやる。
「何か足りないものは無い?気になる事とか」
「何も無いわ、大丈夫。あなたの顔を見れて大満足。家は統クンが管理してくれてるし……」
そう言うと、彼女はふふふと笑った。
「止めたんだけど、どうせ一緒だからってお洗濯もお掃除もしてくれて」
ほら、と枕元の携帯を手に取りリビングの画像を出す。
「今までで一番キレイな状態かもよ」
「うわ……参った」
整然とラックに入っている雑誌類。ソファの傍らに畳んで置かれているブランケット。いつでも淹れられるように整えられたコーヒーセット。単に片付いてるのではなく、芥が帰ってきたら直ぐに使えるようにセットされているのが分かる。
「私を真似しただけって言ってたけど、レベルが違う。彼、一流ホテルのバトラーとかやれちゃうんじゃないの?」
「うん。コレ、もうセンスとか才能だよなー」
「そうね」
「うーん……」
一声唸ると、芥は黙り込んだ。続いて決まり悪そうに頭をぽりぽり掻く。
「どうしたの?」
「いや……俺、本当に普段何もしてないな、って……」
神妙な面持ちで反省している姿に、彩はたまらず噴き出した。
「何言ってんの。落ち込むくらいなら、統クンにしっかりお礼を言っておいてよね。それよりも……」
「何?」
「あなたにだけ相談したい事があるんだけど、聞いてくれる?」
「はい、何なりと」
芥が居住まいを正して次の言葉を待つ。柴犬みたい、と彩は心の中で少しだけ笑った。
「この子の名前を決めたいの。最初の予定日よりも早くなりそうだし、そうするともうあまり時間が無いかな?って」
「あー。確かにそうだね」
「名前の候補、ある?」
「ゴメン、未だ全然」
ぱん、と芥は両手を顔の前で合わせてギュッと目を瞑る。
「別に謝らなくても良いってば。相談なんだし」
「だけど俺、本当にそういうセンス皆無だからさ。明るくて優しい子に育ってくれればそれで十分だ」
「明るくて優しい……ね。良かった、一緒だわ」
両手を合わせたまま、彼は片目だけそろりと開けた。
「……彩には案があるんだ?」
「うん。あのね」
聞けば確かに、これしか無いと思えた。自然と芥の顔もほころぶ。
「統クンの字を使わせてもらいたい。私達“3人”の恩人っていう事もあるけど、何よりも彼みたいな、周りも自然と明るくしてくれるような優しい人に育ってほしいな、って」
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