中山可穂『娘役』感想 永遠の青春と宝塚


劇場に行けねえ、チケットが当たらねえ、配信も見られねえ、そんな時は読書で宝塚を味わうべし。中山可穂の宝塚シリーズは宝塚を舞台にした至高の3部作である。文庫版あとがきにあるように、このシリーズはまさしく「ヅカファンによる、ヅカファンのためのヅカ小説」だ。どれも宝塚好きのツボをグリグリ押してくる素敵な物語なのだが、今回はシリーズ2作目『娘役』について感想を書こうと思う。

宝塚という青春


暴力団一亀会の鉄砲玉である片桐は、若頭である鶴田から一亀会の同系列組織、大鰐組の組長・通称ワニケンの暗殺を密かに命じられる。
ワニケンが珍しく一人で出かけたのを千載一遇のチャンスと思った片桐は彼のあとをつけるが、彼が向かったのはなんと宝塚大劇場であった。

ワニケンはミッチーさんという雪組男役の大ファンで、この日は彼女のお披露目公演を観に宝塚大劇場へ向かったのだった。そこへ偶然宝塚など塵ひとつの興味も無い片桐が居合わせたわけなのだが、この物語において冒頭の宝塚大劇場の場面は大変重要だといえる。なぜなら宝塚という青春の象徴のような場所で、ワニケンと片桐、野火ほたるの青春がまさに交差しているからだ。


これはしがないヤクザ・片桐とタカラジェンヌ・野火ほたるの10年の物語である。この10年の中で片桐はワニケンと出会い、宝塚を知り、ヤクザ稼業から足を洗い、寿司を握り、服役し、野火ほたるの夢を見て、散る。野火ほたるも初舞台を踏み、靴を飛ばし、リフトを失敗し、疲労骨折で泣き、薔薇木涼と花組トップに就く。
この長い10年の中で、この野火ほたるの初舞台はまさしくふたりにとっての青春といえるだろう。若く未熟で、何もかもに一生懸命だった時代の記憶。その苦さと輝きはいつまでも消えることはなく、10年経ってもその鱗粉はひらひらと脳裏を舞うのだ。
そして私は宝塚そのものこそ青春の象徴なのではないかと思う。ワニケンはミッチーさんや宝塚のことを語るとき、「少年のような澄んだ目」をする。ワニケンの脳裏にもミッチーさんの初舞台の記憶がきっとあるのだ。彼はミッチーさんの舞台を観ることで青春に還ろうとしているように見える。我々も、輝きを増していく推しを観るたびに彼女と初めて出会ったときのことを思い出したりする。あるいはその時の自分、きらめきを帯びた青春時代に手を伸ばす。

話はそれるが、自らの観劇体験に基づかなくても、宝塚は青春の象徴と言えるのではないかと思う。これは女子校育ちで元ミュージカル部所属の自分だからこそ感じることなのかもしれないが、「女」であることを保留されている、家父長制に飲み込まれる前の束の間の自由な時間が宝塚からは思い起こされるのだ。役割から解放されていた、抑圧されることのなかったあの頃の自分たち。女同士で戯れることを許されていた(社会に。私自身は今も女性同士で戯れることに何の遠慮もするべきではないと思っている)あの頃を青春と呼ぶのはあまりに寂しすぎるけれども、女性だけが舞台に立ち男と女を演じる宝塚の舞台は、私たちが何者でもなかった時間のきらめきが確かにあると思う。(勿論そういう夢を見せてくれる、ということであって、団員の方々は自由とはとても言えない状況なのかもしれないということは強調しておく。併せて男役と女役の格差など考えたいことは山ほどあるが、それはまたいつかの機会に回すことにする。)

話を戻そう。宝塚大劇場で3人の青春は重なり合い、そして最後、もう一度3人の青春は重なり合って物語が終わる。

舞台の永遠性


この物語は初めと終わりの状況が非常に似通っており、円環状をなしていると言える。推しのお披露目公演に臨むワニケンと片桐、それを殺そうとする片桐と鶴田。ほぼ完璧に重なる構図のただひとつの相違は、ワニケンは生きたが片桐は死ぬ、というところだ。片桐が暗殺をやめたのはワニケンの忠告の上にほたるの靴が飛んできたからであった。ほたるの靴が果たしてワニケンの守護神であったのか、片桐の守護神であったのか、最後の場面でほたるの靴は片桐を守ってはくれなかった。鶴田のもとに初舞台生の靴が飛び込んでくることもなかった。そのころほたるは無事にお披露目公演を迎え、薔薇木とスーパーリフトを成功させていたのだった。

私はこのラストシーンがこの3部作の中で1番好きだ。まわる因果のなかで250本の薔薇があまりにも眩しく、ふたりのリフトが永遠を思わせるようにまわり続ける。なんと美しい光景だろうか。このラストシーンについては後ほど感想を書き殴りたい。

この円環状をなしている物語を読んで、私はそもそも宝塚(舞台)自体が永遠性を持つものなのではないかと思った。
宝塚は不定期的にだが全く同じ演目を上演する。いわゆるベルばらやエリザベート、ファントム、ロミジュリなどだ。それらは初演時から曲や演出を大きく変えることなく続いている。野火ほたるも初舞台とお披露目公演が同じ「春のかたみ」という演目であった。
同じ演目を演者を変えてやり続けるということは、古典を受け継いでいくことだ。バレエでも2.5次元ミュージカルでも、古典を受け継ぐにはそれしか方法はない。誰かが入団し、誰かが退団していく。同じ演目をやり続ける。誰かがやったようにもう一度、あるいはその役に少しアレンジを加えて。そうして役のイメージは確立されていく。宝塚は螺旋のかたちをしているように思われる。(勿論宝塚に限った話ではないが、特に同じ劇団の狭い世界でという意味で顕著だと思う)
そして螺旋上の一公演一公演のなかで、宝塚は観客に一瞬を売っている。

スーパーリフト、あるいは雨のなかのメリーゴーランド

はじめはゆっくりと、やがて少しずつ速度を増しながら、ほたるのドレスの裾がきれいに波打って円盤状にひろがり、バラキが水平に伸ばした腕と平行線を描いて流れるように回転していく。それはずっと続くかと思われるほど長く、息を呑むほど高速の、めくるめくようなスーパーリフトだった。二人は優雅に微笑みあい、ようやく真のコンビになれた喜びを分かち合い、観客の熱狂の渦を巻き込んでいつまでも果てることなく回り続けていた。

『娘役』(中山可穂/角川文庫/2018.7)ラストシーンである。美しい。
この前に片桐が血まみれの薔薇の花束を楽屋口の守衛さんに渡すシーンがあるのだが、この死ぬ直前の片桐の脳裏でもリフトは回転している。
死、少女の回転、永遠。私はこのラストシーンを読んだ時、深い感動とともにある小説の一節を思い出した。

雨が急に馬鹿みたいに降りだした。全く、バケツをひっくり返したように、という振り方だったねえ。子供の親たちは、母親から誰からみんならずぶぬれになんかなってはたいへんというんで、回転木馬の屋根の下に駆け込んだけど、僕はそれからも長いことベンチの上にがんばっていた。すっかりずぶ濡れになったな。特に首すじとズボンがひどかった。ハンチングのおかげで、たしかに、ある意味では、とても助かったけど、でもとにかく、ずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。
フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持ちになったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。

これは『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.Salinger/野崎孝訳/白水社/1984.5)からの引用である。私はこの有名なシーンと『娘役』のラストシーンには共通点があるように思う。それは「永遠の青春」だ。

『ライ麦畑でつかまえて』は青春小説と言われる。この言い方は個人的には気にくわないのだが、とにかくホールデン少年が自分が生きたいように生きるために悪戦苦闘する物語だ(なんて雑なまとめ方)。
ラストシーンではホールデン少年の妹フィービーが豪雨のなかメリーゴーランドに乗っている。これはホールデン少年が求める純粋性、イノセンスおよび青春が永遠にそこに有り続けることへの祈りなのだと思う。回りつづけるメリーゴーランドは時を止めて永遠になるイノセンスなのだ。
このシーンは『娘役』のラストシーンに似てはいないだろうか。片桐の青春である宝塚、彼の大切な天使野火ほたるが永遠に続くともしれぬ完璧なリフトでくるくると回っている姿は、雨のなかメリーゴーランドに乗ったフィービーと瓜二つではないだろうか?
さらに『ライ麦畑でつかまえて』の雨や水の描写は死の象徴として読み解かれる場合がある。それも踏まえると、片桐の死はまさにメリーゴーランドの外に降る雨であるような気がしてならないのだ。

片桐はお披露目公演を観られずに死んでいく。しかし彼の脳裏には野火ほたるがいた。彼女が完璧なスーパーリフトでくるくると回る、その回転は、片桐のなかで永遠になっていく。そして永遠の青春として、彼の中でいつまでもいつまでもそれは続くのである。



死によって回転が永遠になった片桐のこと、きっとホールデン少年は羨ましく思うことでしょう。靴が飛ぶ「一瞬」の話もしたかった、あのシーンも大好きです。とにかく『娘役』素晴らしい小説でした。そして『娘役』のつづき、3部作の3冊目『銀橋』が4月下旬文庫になりました。角川文庫で3作ともお求めいただけますので、ぜひ宝塚ファンはお買い求めいただき、魂の飢えを癒していただければと思います。


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