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美食爛漫

 男は極度の緊張で箸を戦慄かせていた。
 「迷い箸だ。執行する」
 男は目を見開き、箸を取り落とす。己の喉に指を突っ込み、必死に吐き戻そうとするが、その動きはやがて糸が切れたように止まった。
 「こやつは何年料理評論家をやっていたのだ?」 
「今年で十周年と少し前のテレビで言っていましたね」
 「ふん……十年経っても腹すら据わらんか。そもそも、常日頃から食膳に向かうことすなわち料理人との真剣勝負。このような不快な男をこれから見ずにいられるとは、この児戯にも感謝しなくてはな」
 余裕の表情で箸を進めるのは、『食通』村井団十郎。三代に渡り美食を追求し続ける村井家の当主である。彼を筆頭とし、食卓に並んで座っている美食家達の目前には一汁一菜の膳。その半分以上は食いかけの状態で箸が永遠に止まっていた。
 「アンタ、人の……いや、自分の命だってかかってるんだぞ!どうしてそんな平然と食える!?」
 声を荒げるのは『料理は心』川上純一。
 この大声に驚いた白人が箸を取り落とした。
 「落とし箸。執行する」
 「ま、待ってくれ!これは俺の」
 「ジーザス……」
 白人が机にうつ伏したのを見た川上は、天を仰いだ後、自分の茶碗に箸を立てた。
「ガイジンにはさすがにキツいよねー」
「わざわざ他国の食に口を出しに来たんだ、郷に入っては郷に従え」
『ギャルのドカ食い』ミャコと『箸先のファンタジスタ』カズシゲ。若輩ではあるが、両起こし・振り上げ箸などの大半の美食家が犯した禁忌を回避している。
 「すかし箸。執行する」
 「探り箸。執行する」
 改めて見てみると、箸にまつわる禁忌のなんと多いことだろうか。そして、それを守れない美食家のなんと多いことだろうか。
 第一膳を空に出来たのは、10人のうち僅か3人。
「第二膳を開始する」
黒服の男達が美食家達に配膳を始める。第二膳の料理は、湯豆腐である。「俺から行こう」カズシゲが箸を取った。(続く)

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