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瞑想・坐禅の私観まとめ:理論編

 マインドフルネスを知って実践してから何年か経つが、ここらで学んだことを一通りまとめてみることにする。過去の自分のメモを読むと結構いいことを言っているんだけど、なにがいけないって書いた自分が全然覚えていないという致命的な不具合があり、そのせいか心の健康の波が実際とても激しい。というわけでこれは半分以上自分のために書いているんだけど、これから瞑想を始めるという人の助けにもなるんじゃないかと思っている。もしそうなれば幸い。

瞑想はなんの為にやるのか

 そもそもなぜ仏教徒が坐禅や瞑想をするのかというと、修行によって悟り(大悟)に至るのが目的なわけだが、それを昔の経典に書いてあるような「神通力を得て人間を超える」みたいなことだと思っていると初手から話が通じないということになってくる。たとえば『維摩経』では、維摩詰の邸宅に菩薩のための超巨大な椅子(全長340万ヨージュナ≒5100万km)を320万個も出現させ、しかもそれは部屋を圧迫もせず家の外にもなんの影響もないという「神通力」を発揮する場面があるが、こんなものは幻覚作用のある薬物を使うとか(*1)、山で何日かガチの遭難をして臨死体験するとかでもしなければ体験できまい。どちらも健康にとても悪い。

 というわけで、ここでは「悟り」というのを、
・智恵の働きによって苦しみから開放された健全で自由な精神状態
と、ひとまず仮定しておく。三法印のひとつ「涅槃寂静」に近いと思う。現代の瞑想指導者も概ねこのような感じで指導しているのではなかろうか(神通力の獲得を約束するような奴は間違いなくペテン師である)。

「智恵の働き」とはなにか?

 では、その智恵の働きとは何なのか。岩波仏教辞典第二版(以下『岩』)によれば、仏教における智恵とは「一切の現象や現象の背後にある道理を見極める心作用」とある。また「無常・苦・無我、縁起、中道などの道理を洞察する強靭な認識の力」(岩)ともある。般若心経の「般若」とは、これらの智恵の作用のことを指す言葉である。
 この「洞察力」というのは単に「仏教知識がある」ということでは決してないというのは言うまでもないが、では具体的にどういったものなのか。

 マインドフルネス創始者ジョン・カバットジンはその洞察力を「気づき」という言葉で表したのだと思う。その「気づき」とは単に人間がモノを認識したというだけのものではなく、

意志を持ってこの瞬間に注意を払い、自分で評価をくださない
(『マインドフルネスのはじめ方』p.12)

というものである。
 また、彼のいう「受け入れる」とは、「諦める」ではなく「あるがままに見る」ということである(『マインドフルネス・ストレス低減法』p.64)。これらの要素をまとめて「マインドフルな」態度と示した。これが彼の考える「智恵の働き」だといえよう。

 「この瞬間に注意を払う」とはつまり、「常に変化し続ける物事に注意を払う」と言い換えることができる。つまり諸行無常(万物は変化し続ける=永遠不変のモノは存在しない)という視点で物事を捉えるということである。(*2)(岩)
 また、「自分で評価を下さない」とは「中道」の視点で物事を捉えるものだと解釈できる。仏教における中道というのは「AとBのちょうど中間」という意味ではなく「AかBか」という対立から離れることを指す(岩)。良い/悪い、美しい/醜い、賢い/愚か、聖人/凡人、成功/失敗、勝ち/負け、といった「評価の軸」から離れることで、物事のありのままの姿を捉えようという考え方である。これは決して「平等に見る」という単純な視点ではなく、そもそも人間の評価判断を通さないという視点である(両者を比べて同じように扱いましょうねという視点がそもそも『人間の評価』である点に注意)。人間の感情や態度がバイアスとなって物事の認識に影響を与えるのは我々が日常的に経験している通りであるが、そのような拙速な色眼鏡(凡夫の認識)から離れようというのが「中道」の趣旨だといえる。
 また、「ありのままに」見るということを仏教では「如実」という(岩)。如実に見るとはつまり、プラス思考とかポジティブシンキングとか良かった探しとか(逆にマイナス思考とか卑屈な思考も含め)、「無理やり違う解釈を捻り出す」ようなことを退ける。
 では、仏教における如実な態度とはどのようなものか。「如実」と同じ「ありのまま」という意味を指す言葉に「真如」というものがあるが、これは、

無為自然の道を真として、俗世に対立させる老荘の真俗観をふまえた表現。
(岩)

とある。「無為自然」とは老荘思想(道教)の「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること」(精選版日本国語大辞典)であり、「人為」と対極にある言葉である。このことからも、仏教では真実を見極めるためには人間の単純な認識や分別を退けることを重視しているということが分かる。(*3)

 以上のことから、ジョン・カバットジンは仏教瞑想の重要な概念を極めて簡潔なメソッドのレベルに整理したのだということが分かる。

 しかし、カバットジンは仏教で重要な概念である「諸法無我」ということを意図的に除いているように私には感じられる。
 諸法無我というときの「無我」とは心を無にするということではない。我とはアートマンという概念であり、「ある存在をそのものたらしめている永遠不変の本質」(岩)、つまり人間でいえば「魂」である。バラモン教やジャイナ教は修行によって自分の魂を大宇宙の真理と一体化する「梵我一如」を志向しているが、仏教は「そもそも永遠不変の本質など存在しない(=無我)」というスタンスでこれを痛烈に否定する。これが諸法無我の概念である。
 では、諸法無我を除いているということの何が問題なのか。それは、諸法無我でない瞑想は「人為から離れる」ということが非常に困難である、という点に尽きる。たとえば『アップデートする仏教』では、西洋人が瞑想で我を捨てられないので修行の段階がなかなか進まないというエピソードが紹介されている。また、ドイツ人哲学者が弓道を習った『弓と禅』では、「自分から離れる」という概念がどうしても理解できずに小細工に頼ってしまい、あわや師匠から破門されそうになるという場面がある。理性の主体としてまず自己があり、その自己をうまく扱うことで問題解決しようという西洋哲学の方向性と、自分から離れるという仏教や道教の方向性とは実に相性が悪い。
 確かに、マインドフルネスでは「自分の意識」を引っ込めて感覚をもう一度改めようということを教えてはいるが、諸法無我というところまでは推し進めていない、というのが私の考えである。それでも鬱や疼痛は改善するので問題ないと判断したのかもしれないが、それだとやがて瞑想は行き詰まり、真に主体的な体験から離れて行くのでないか、と私はそう考えるに至った。

追記:諸行無常、諸法無我について

 仏教瞑想で重要な概念として挙げた「諸行無常」「諸法無我」について。仏教には他にも重要な概念はいくつかあるが、ここでこの2つを挙げたのは信仰的に重要だからというより、この2つの概念が「単に事実だから」である。

 まず諸行無常について。「あらゆるモノは時間経過とともに変化し続ける」というのは、物理現実世界にあるモノは全てそのような性質になっているであろう。少なくとも我々が認識できるものに関していえば永遠不変の固有の実体というものは存在しない。どんなに強固で堅牢なものに見えても、微粒子や素粒子といったレベルで見れば必ず何らかの変化がある(逆に、巨大なシステム全体として見れば変化が起こっているということもあろう)。これは「仏陀がそう言ったから正しい」のではなく「誰が見ても世界がそうなっているから正しい」のである。なので、諸行無常は宗教の信仰とは関係ない事実である。
 また、諸行無常は「永遠不変の固有の実体」を用意すればいつでも反証できるので、諸行無常それ自体もまた諸行無常である。ゆえにこの説は永遠不変の真理ではない。そういう点からも宗教の信仰とは離れたところにあるといえよう。

 次に諸法無我について。物理現実世界にあるモノは、より小さな部品が集まって出来ている。たとえば人間の体はタンパク質やカルシウムといった分子で出来ていて、それらの分子は素粒子が集まって出来ている。素粒子同士は粒子間の相互作用(電磁気力や核力等)で結びついているのであって、人間の都合や精神のあり方とは全く何の関係もない。モノはより小さな部品の関係性(縁起)によって形作られているのであって、何か別の場所に「固有の本質」があってそれを転写しているわけではないし、モノ自体が固有の実体そのものであることもありえない(=『私』は『私によって作られている』のではないし、『私の精神』は私の精神で出来ているのではなく、私の神経ネットワークが作り出した『現象』である)。これもまた「仏陀がそう言ったから正しい」のではなく、「誰が見ても世界がそうなっているから正しい」のであるから、諸法無我もまた宗教の信仰と関係ない事実である。
 また、諸法無我という概念はただの情報であり、つまり信号の集まりに過ぎない。永遠不変の固有の実体ではないのであるから、諸法無我それ自体もまた諸法無我であるし、これもまた永遠不変の真理とはいえない。

まとめ

・瞑想は「智恵の働きによって苦しみから開放された健全で自由な精神状態」を目指すものである。
・ジョン・カバットジンのマインドフルネスは仏教瞑想の要点を見事にまとめているといえる。しかし、西洋文明圏に気を配るあまり、仏教瞑想における重要な点をいくつか取りこぼしている。

瞑想・坐禅の私観まとめ:実践編に続く....


(*1) 余談:「キメねこ」氏のマジックマッシュルーム体験漫画で『夜空を触れそうなくらい自分が大きく感じる』『砂粒ひとつが壁のように大きく見える』という場面があり、これは先程の神通力の描写に近い。『維摩経』編纂当時このような薬物が普通に儀式として使われていたのではないかと私は思っている。 https://twitter.com/kime_neko/status/1238445458801844225?s=20

(*2) この「永遠不変のモノは存在しない」という概念は、西洋文明の宗教とはひたすら相性が悪い。「この瞬間に注意を払う」という表現には、カバットジンの苦慮が窺える。

(*3) 人為から離れるという事と禅のいう「随所に主となる」ということは矛盾しているように思える。しかし、「獣の判断・凡夫の判断から離れて真如に基づいた判断を自ら主体的に行う」と考えれば矛盾なく両立する。鈴木大拙が「無分別の分別」と呼んだものはコレではなかろうか。

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