性差別の描写は疲れる。

映画や漫画、身近なところでいえば、テレビCMやシチュエーションを表現したイラストなどでこんな表現を目にしたことはあるだろうか。

”男性上司にアドバイスをもらい、笑顔で応対する女性”
”冠婚葬祭において男性メインの描写”
”家庭内において男性に尽くす敬語の女性”

今の時代では少なくなってきたが、これらの描写は”性差別”にも関わってくる表現である。
この手の話が嫌いな人は「うわ、またフェミかよ」や「出た〜!」「まぁ、性差別の話だけじゃないけどね。」などと思うことだろう。知っている。


少し前の自分は、こうした性差別の表現が好きではなく、いくら表現の一部とはいえ目にしたくなかったのだ。特にこの思考が強かったころはサマーウォーズの田舎における独特の描写すら違和感を感じていた。

だが、いつだろうか。SNSで
「性差別に関わらず、過去の作品から差別描写を無くすことは、事実を隠してしまうことである。そうした差別があったことは伝えるべきである。」
のような内容を目にしたとき、考えは変わった。

確かに、その通りである。
(性差別に限らずあらゆる)差別は必ずしも卓上のみで知り得るものではない。実体験はもちろん、映画や漫画などコンテンツから得る知識も多いにあるだろう。
だからこそこうした過去や一部地方の独特の差別描写は消してはならない。


理解できる。
しかし、なんだろうか。この体に残る違和感は。


あのSNSでの発信内容を見たあと、数ヶ月はこの違和感はなんだろうと考えた。個人としての見解も、うまく具現化できない。
頭では理解できる。反論をするつもりもない。表現を消してはならない、というのは真っ当だと思う。
だが、コンテンツでそうした描写を見るたびにモヤっとしたものが残ってしまう。


そんな中、精神的にも体力的にも疲れているときに家で映画を流し見していた。
その時にこの違和感に気がついた。

差別描写を見るたびに”疲れる”のだ。

それだけかよ、と思うかもしれない。それだけだ。
この”疲れる”のは、おそらく自分とその差別を受けている人間をリンクさせてしまうからであり、さらに一気に現実の自分を思い出してしまうのだ。「そんなことあるよなぁ。」とか。

これは性差別だけではなく、さまざまな描写で起こりうることだろう。
イジメの描写や会社で重い責任下で動く描写、責任転嫁され追い詰められる描写。数え切れないほどある。

私の疲れるか、疲れないかは、これら描写がコンテンツ内でどう処理されていくかによって変わる。
たとえば主人公の周りでイジメの描写があったとする。
・主人公はそれを見て見ぬフリ、物語はそのまま進んでいく
・主人公が被害者を助けるもしくは被害者が反撃する場面がある物語
どちらが疲れないだろうか、といったら後者だ。

だが、性差別においてはこのようなスッキリする場面は多くはない。
大抵”背景の一部”として映しだされて終わるのがほとんどだ。
行事の描写で料理を作り、運び、お茶をいれるのはどちらの性別だろうか。日本が舞台の場面では当たり前かのように女性が描かれる。

これが疲れる。よくある光景であり、今も見る光景だが「なんだったんだ、今の描写は」とモヤが残る。捻くれてるかもしれない。

少なくとも映画や漫画など現実から少し離れられるものからは
こうした性差別の描写はスッキリと終わる形で描かれてほしいと思う。(事実を捏造しろということではない)

言っておくが差別が表現されることは悪ではない。
今は性差別がない、とも思わない。普通に存在している。
だが、表現されてる時代が現代であるなら、”今変わろうとしている”描写がほしいとは思う。(多くはなってきているが)
現代において、差別を一つの”背景”として残してほしくないのだ。

日常の一部として性差別が通っている、というわけではなく、性差別は残っているが、変わろうとしている表現があれば疲れないんだろうなと。

独り言おわり。

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