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【断想】 線は正確に引くことなかれ

縁を引くということは、「取りこぼす」ということだ。

断念に血を流すような痛みが伴うように、線引きには耐え難い痛みが伴う。

簡単に分けられぬものに線を入れる。
そこには「割り切れぬ」思いが生じる。

 

ところが私たちは、線引きへの痛覚を鈍らせてしまっている。

線引きの暴力性にあまりに無自覚なまま、私たちはこの世界に多くの線を入れていってはいまいか。

切り分けが過ぎると、全体性(wholeness)を回復するために癒し(heal)を求める(wholeとhealは同語源である)。


しかし反対に、線を引くということは、「すくい取る」ことであれはしないものだろうか。


新型コロナの経済対策として、現金給付が昨今話題になっている。
日本政府はここまで一貫して「一律給付」の考え方を否定してきたが(昨日14日から流れが変わってきた)、その背景には「たとえばですね、私たち国会議員や国家公務員は、いま、この状況でも全然影響を受けていない。収入に影響を受けていないわけであります。」という7日の安倍首相の発言に見られるように、配り過ぎを躊躇する姿勢がある。

すなわち、多少零れ落ちるものがあっても致し方無いので、狭めに線を引く方が良い、と彼らは言っているのだ。


しかし、なぜその線は広めに引いてはならないのだろう。


いじめを「いじめられた人がいじめられたと思ったらいじめ」という主観的な判断に依るしかないというのも同じ類の話だろう。
仮にカメラに録画されていた映像を確認してみれば、多くの人が「これはいじめとは言えない」と感じるものだって無いとは言い切れない。
それでも、「いじめを見落とすよりはまし」と思うからこそ、広めに幅をとるような操作的な定義をするより他ないのである。

「疑わしきは罰せず」も同様の話だ。


私達は「正確に線を引かねばならない」という強迫観念にかられている。



天と地、光と闇を分離することで多くの神話が始まるように、線引きの先には新たな物語の展開が待つ。

そして、その物語を綴るのは他でもない私達である。

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