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散歩と雑学と読書ノート


千歳川

散歩をする時間帯は有名な哲学者のカントほど正確ではなくても、習慣化するとおのずと一定になっていくものだ。早朝に散歩をしている人が多いかもしれないが、私は朝は苦手なタイプなので散歩の時間は主に夕食前の明るい時間帯が多く、昼食の前後の時もある。
先日、糖尿病と高血圧で治療をしてもらっているクリニックの先生から、糖尿病の人が散歩をするのは夕食後がよいといわれていますよと教えていただいた。このことは医学的なエビデンスのあることなのだろと思うが私は今のところ散歩の時間帯を変更せずにいる。

散歩をしながら考えごとをしている時の自分の様子を振りかえってみると、いつも断片的でぼんやりしたことが多くまとまりがない。このところは特にひどい、暑さのせいもあるのか私の頭はさっぱり回転してくれない。時にnoteの記事のことを考えながら歩いていても一向に良い考えが浮かばない。早朝や夕食後に歩いてみたらどうなのだろう。私はあまり変わらないような気がして今のところチャレンジしてみようという気も起きないでいる。

               

8月8日に精神科医で神戸大学名誉教授の中井久夫先生が肺炎でなくなられた。享年88歳であった。そのことを私はこの夏、東京から孫を連れてきていて、リモートで仕事をしている娘夫婦から知らされた。ネットに神戸新聞の記事として載っているとのことであった。中井先生に関してはこのnoteの初めての記事でふれさせてもらったが、いまはもう少し、頭の整理をしたうえで再度何か書かせてもらえたらと思う。


「読書ノート」

前回から幻覚をめぐる知覚(特に遠隔知覚)の問題を考えてみている。今回の読書ノートには知覚の進化に関連した書物を何冊か取り上げてみたいと思う。

土屋健著「機能獲得の進化史 化石に見る「眼・顎・翼・あし」の誕生」、みすず書房、2021、と同じく土屋健著「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」、技術評論社、2013、はなかなか興味深い書物である。特に後者は豊富な写真やイラストを楽しみながら古生代に出現した原初の多細胞生物(動物)に思いをはせながら読ませてもらった。

エディアカラ紀とは、約6億3500万年前~約5億4100万年前で、
カンブリア紀は、約5億4100万年前~4億8500万年前である。

土屋は「機能獲得の進化史 」の第二章で遠隔検知を取り上げている。遠隔を検知(知覚)するのは、五感のうちの「視覚」「嗅覚」「聴覚」である。生物がそれぞれをどのように獲得し、進化させてきたのかは必ずしもよくわかっているわけではないが、土屋によると「視覚」に関しては、約5億2000万年前の古生代カンブリア紀半ばの地層から、眼とそこから延びる視神経と脳をはじめとする中枢神経系が確認できる化石が発見されたとのことである。

その化石は中国の雲南省、澄江の地層から発見された、全長2.5センチメートルほどの水棲の節足動物「アラルコメナエウス」のものである。頭部が楯状で、そこからダンベル型の眼が一対2個あった。その眼から視神経が伸びていて中枢神経系が確認されたのである。神経系を確認したのは日本の、群馬県立自然史博物館の田中らによってである。その神経系は現生の鋏角類(サソリやカブトガニの仲間)のものに近いと指摘されている。

さらに、カンブリア紀の海で、生命の歴史上はじめて弱肉強食の生態系が成立した時の、史上最初の覇者はアノマロカリスである。その化石が発見されているが、その眼は複眼で、なんとレンズの数は1万6000個以上であった。それは現在のトンボに準ずる多さである。
この古生物の眼の能力まではよくわかってはいないが、アノマロカリスのレンズの数をみても相当な能力を持っていたことがうかがわれる。幾つかの古生物に構造色がみられているので当時はすでに色の識別がある程度なされていたのだろうと土屋は述べている。さらに形や、立体感、遠近感をある程度認知する能力を獲得していたのだろう。また神経系は視神経の出現以前にすでに一定の進化をなしていただろうと考えられると土屋は言う。古生物の神経系は今日のようなアセチルコリンやドパミン、セロトニンなどの分子をすでに活用していたのだろうか。疑問は尽きない。

トッド・E・ファインバーグ、ジョン・M・マラッドは、彼らの著書「意識の進化的起源 カンブリア爆発で心は生まれた」、勁草書房、2017、および「意識の神秘を暴く」、勁草書房、2020、のなかで、原初的な意識をこのカンブリア紀の生物が獲得していたと述べている。私が関心を持つシェリントンのいう脳の投影性(著書の中では参照性とされている)もこの時期に獲得されていたと彼らは述べている。その参照性という神経系の特徴をファインバーグらは次のように適格に記述しているので引用しておきたい。

意識経験が脳自体を参照することはない。つまり、いかなる経験も脳内のニューロン(神経細胞)の発火として知覚されず、主観では発火にまったく気づかない。むしろ経験は、外の世界の何かや、体表や体内の何かを指し示すよう参照されるのである。この参照性は、「心的イメージ」として外的世界へと投影される外受容的経験や、また体内の状態を部分的ないし全体的に経験する内受容的経験および感情的経験の特徴となる。
      
       「意識の進化的起源
        カンブリア爆発で心は生まれた」(7ページ)

5億2000万年前を境にその以前には眼を持つ生物の化石は見出されていない。
大英自然史博物館の研究リーダーであるアンドリュー・パーカーは「眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く」、草思社、2006、のなかで、先カンブリア時代の最後に地表面の日光の量が増大したことを示す地質学的証拠が見つかっている、海中にも到達した日光に反応して眼が出現し進化した。
その眼の誕生こそが、生命史を大きく変える契機だったと述べている。パーカーのこの説は「光スイッチ説」と呼ばれている。
眼は捕食,被捕食の関係に大きな影響を与える。眼を持つことは捕食に有利であるために眼を持つ動物が増加するようになるだろう。また被捕食者は対抗としてトゲや殻を発達させる。つまり硬組織をもつ動物種の増加が促される。眼の誕生はこのような形で、三葉虫を始めカンブリア紀の多様な生物の誕生を促した。

「光スイッチ説」はなかなか魅力的な仮説である。ただし私の記憶違いでなければ、現代進化生物学の第一人者であるグールドが、パーカーはすこし言いすぎるところがあると述べていると何かの本に書かれていた。

グールドは世界的なベストセラーとなった名著「ワンダフル・ライフ」で、カナダのバージェス頁岩で発見されたカンブリア紀の動物の研究史をめぐるドラマを再現し、進化の偶発性について述べている。その著書の終わりに、グールドはカンブリア紀に生存していた脊索動物であるピカイアを取り上げて、この生物が生き残らなかったら我々人類は将来の歴史から抹殺されることになっていただろうと述べている。

もちろん人類の祖先はずっと生き続けてきた。中生代の恐竜の時代も小さなネズミのような姿で嗅覚をきかせながら生き残り、恐竜の絶滅後の過酷な環境下でも生き続けた。

恐竜の時代に関して、土屋は、その覇者と目されているティランノサウルスは嗅覚が発達していたこと、さらにティランノサウルスの仲間であり約9000万年前の白亜紀に生存していたティムレンギアは優れた聴覚を持っていたと指摘されていることを記述している。


                ***

 2020年 自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


幻覚をめぐる覚書―知覚もつれー (2)

6、幻覚の脳内機構はどう考えられているのか

幻覚の脳内機構はどうなっているのだろうか。ここでは幻聴と幻視に関して、ふれてみたい。もちろん、わかっていることは極めて限定的である。
私の知りえた範囲であるが、幻聴に関してはその脳科学的な研究は比較的活発になされているが、幻視に関しては幻聴ほどではない。しかし、聴覚に関してよりも視覚に関してその脳内機構の研究は進んでいるようである。

(1)脳は外界をどうとらえているか

この拙論で私は脳の働きとして投影と呼ばれる外界知覚の成立をどのように科学的に説明できるのかという問題に関心をもち、幻覚の問題と絡めながら考えてみようとしている。
これまで外界知覚に関する脳の空間情報処理過程には頭頂連合野が関与していることが臨床例などから知られている。ここでは、その外界をとらえる脳のメカニズムに関して、2021年発行の「連合野ハンドブック」でなされている記述の一部を引用させていただく。

体性感覚野と視覚野の間に挟まれた位置にある頭頂連合野では、体性感覚入力からは自分自身の身体空間の情報が、視覚入力からは身体の外にある外部空間の情報が得られ、さらに聴覚系、前庭系、海馬などからの入力が統合され、空間内での行動の制御に必要な自分の身体空間と自分の外の空間の知覚・認知が成立していると考えられる。(160ページ)

実際に生活している空間内では、物体が配置されている場所と観察者の間には距離があり、物体そのものには三次元構造(奥行き)がある。頭頂連合野はその双方の情報処理に関与している。(172ページ)
                     「連合野ハンドブック」

投影という脳の外界認知機能は、今回「読書ノート」でもふれたように、5億2000万年前のカンブリア紀の生物がその原初的な形を、すでに獲得していたとみなせるという事実を私は重く受けとめるべきだと思う。
もちろんだからと言って、その機能の説明が簡単なはずだと主張しようとは思わない。生命の奥深い不思議にため息が出る思いである。

私はこの機会に生物学的な空間認知は、自動自動車の空間認知とはまた異なるメカニズムのものだろうが、両者を比較することで、何らかの考えるヒントが得られるのではないかということを問題提起として挙げてみたい。
自動自動車は、私の理解した範囲であるが、GPSやカメラなどのセンサーがもたらすビッグデータをもとに、搭載されているAIがベイズ推論の確率的な計算を高速で再帰的に繰り返して、進行すべき空間認知をきわめて正確に導き出しているようである。

(2)幻聴の脳内機構に関して

「何であれ、何かを意味する以前に、言葉を発する行為はすべて誰かが語っているということを知らせている~
単なる声だけでも、特定のメッセージの担い手として働く以前にすでに多くのことを語っている。例えば、人間だと語っている。男だ、女だ、子供だと語っている。聞いたことがあろうとあるまいと、このような言語だと語っている。要求したり命令したりしていることを、つまりしかじかの意図を語っている。」   ヴァレリー


 幻聴の体験者の語りをめぐって

幻聴の体験はどう語られているか。ここではその語りの一部を(プライバシーの保護を念頭に、また語っていただいたことに感謝しながら)書かせていただく。


「考えることも、人と話をしたことも、聴くことも、本を読むことも、言葉に関係したことはみんなエコーのように声になって聴こえてくる」

「自分の喋ることがくりかえしコンピュータみたいな声で聴こえていた」

「『だめだ』『何もない』『あとないぞ』『もうおわった、死ね』等と否定的な内容の事が他人の声で聴こえる」

「体の中(頭や腹の中)から、声が聞こえる。声はときに二種類以上のことを言うこともある。ほのめかしたり、わざとわからないように言ったり、声の主は自分の正体を隠そうとしている。自分は声のことを未確認意識と名づけている。あるいは人類以外の生物ではないかと思う」

「ある時は、ふざけたり、死ねといったり火をつけろといったり、おしっこに行こうとかと思うとトイレに行くのかと聴こえたりした。対話も可能で自分の考えをみんな知っている」

「時に声に従って行動してうまくいくときもある、声が自分の思考に介入して考えることと反対のことを言ってくるときもある」

「声同士がしゃべるときも、声と自分が言い合いになる時もある。自分で声を呼び出すこともある」

「聴こえる時には耳に直接聴こえることもあるが、口の中で一度自分が喋って耳で聴こえるという感じのことがある。時には声にならないで口の中で喋るのを感じるだけのこともある」

「明らかに知人が自分に話しかけているのが分かる、声は聞こえないがその人の音色が分かる」

「時には自分の考えが聴こえてくる感じのこともある。自分の声でないかと思うがはっきりしない。自分で人に喋っているように聴こえることもある。周りの人にも聴こえていると思う」


以上、幻聴の体験者たちの語ってくれた一部を紹介させていただいた。
私は、とくに、「言葉に関係したことはみんなエコーのように声になって聴こえてくる」と語られていることに関心をひかれる。このことは言葉が本質的に音声を内包し音声化を要請する性質を持っているということを示唆しているのではないかと思う。それは人が思考を含めて言葉に関わる活動をするときには直接音声を発しなくとも、その言語活動が脳内で音声行為と関連したモジュールと接続できる可能性を帯びているということを意味しているのではあるまいか。そのために、幻聴では考えることも声になって聴こえるのであろう。

ある語りでは、声にならないが口の中で喋るのを感じるというという事が述べられている。このことは、幻聴の研究者の一部で注目されることのあるサブヴォーカル・スピーチを想起させられる。つまり幻聴の発生時には声にはならない形で発声器官が作動しているのではないかとして、筋電図の研究などがなされているが、結論は出ていない。ここで議論している幻聴は末梢神経が関与していないということが前提であるので、全ての場合に発声器官が関与しているならば、考え直す必要がでてくるかもしれない。しかし現在は不明であるとしておくべきだろう。

また、ある患者は知人が自分に話しかけているのが分かる、声は聞こえないがその人の音色が分かるという。

このように幻聴の訴えには音声そのものとは別の形態で言語行為に関わる病的な訴えがみられる。それは、脳内の言語行為にかかわるモジュールが、音声化そのもの以外に、たとえば声の音色を認知するコラム、自己や他者の声を認知するコラム、構音行為を認知するコラムなど幾つかのコラム形成をなして存在している反映なのであろう。

言語脳科学者である酒井邦嘉によると、「ドイツのクロイツフェルトらは、聴覚連合野である上側頭回のニューロン群が音声の特徴に反応し、さらに自分自身の声に選択的に反応するニューロンがあることを見つけた」という、おそらくそのすぐ近傍に他者の声に反応するニューロン群(コラム)があるのではあるまいか。

幻聴という現象は、単に言葉が声になって聞こえるというだけでなく、言語現象にまつわる様々な音声行為を巻き込んだものなのだ。つまり声になっていない他者の声色や、自分の講音活動や、あるいは音象徴など音声学的な現象(パラ言語的な現象)も巻き込んで幻聴化されているとみなすべきだろう。

音声活動を含めた言語活動がすべて幻聴として出現しうると言ったが、幻聴化しやすいものとしづらいものの差異はある、先にも述べたが幻聴になりやすいものとしては、たとえば書き言葉よりは話し言葉であり、自分の思考過程や自分の行為に関する批評や死ねとか殺せと言った命令であり、どちらかというと良くない被害的な内容である。そして他者の声である。

我々が日常生活の中で最も多く触れる言語活動は、他者の言語活動に関連している。多くは他者の言語を何らかの形で聴いたり読んだりすることであろう。そのうえで自分の言語を用いて考えたり喋ったりしているのではあるまいか。そこに幻聴では他者の声が多くなる一因があるかもしれない。

もともと声が聴こえるというと普通に考えると他者の声が聴えるということで、自分の声が聴こえるとは他者の声のようには強く意識されないのではあるまいか。

人の声の中で自分の声というものは、特別の位置にある。音源は常に一定した自分の喉頭にあるわけだし、声を聴く時にはかならず発話行為が同時に含まれている。そのためか、発話行為の際には聴覚系の活動がすこし抑制されるという研究もある(ただし、統合失調症者ではこの抑制が健常者より少し弱いという研究もあるようだ)。さらに耳に達するさいには、自分の体内の一部を通過してくるわけで、他者の声とは異質の通路である。我々が他者の声を聴く時と同じ条件で自分の声を聴くのは、自分の声の録音を通じてである。そのようにして聴く自分の声が予想とは微妙に異なって聞こえてきて、自分の声とは思えないことがあるものだ。いずれせよ自分の声を他者の声と同じように聴くという体験は稀なものである。しかも自分の声の認知の必要性は他者の声よりは圧倒的に少ないとみても良いだろう。短絡的かもしれないが、そこに幻聴の声として自分の声が成立しづらい一因があるかもしれないと私は推論している。

言語は音声を内包し要請するように、他者を内包し要請すると言ってもよいのではあるまいか、
他者については、実際の他者や内面化した他者のほかに、先(前回)にも触れたが内言に出現する自己の他者化がある。
自己の思考のプロセスに他者化したもう一人の自己との対話を想定するバフチン的な内言の見かたを私は重要視したいと思う。そこに人間の脳内に生じる他者性の、すこし大胆に言うと統合失調症の示す病的な他者の声、つまり中安が言う聴覚化した自らの思考の他者所属性の起源を重ねてみたいと私は思っている。それは言語が要請する現象なのである。

もう一つ言語が内包し要請するものに意味や無意味(それに関連する情動も含めておく)がある。それは先にも触れた大森の言う「知覚的思い」やメルロポンティの「みえないもの」(知覚に対する思考)とも関連していて、言語の知覚や表出と一体のものである。そして妄想の出現に直接接続していると見なしたいと私は考える。幻聴と妄想は言語的な意味(情動)を通じて密接につながっているものである。

以上述べたことを踏まえてみると、言語が本来的に音声を内包し要請する性質を持つことに幻聴が出現する基盤があると捉えることが可能だろう。さらに、もう一つ言語が内包し要請するものに他者性あるいは他者の声がある。さらに言語は意味(同時に無意味)と情動を内包し要請するものでもある。それらが幻聴のあり方に反映されているとみなせるのではあるまいか。

 言語を生成する脳内機構

次に少し視点を変えて、酒井のチョムスキー理論を脳科学で検証しようという研究を手掛かりに、幻聴の脳内での成立条件を見ておきたいと思う。
ここでは酒井著「言語の脳科学」や「チョムスキーと言語脳科学」を参照させてもらう。

酒井の述べる脳の言語地図をまずみておきたい。これは酒井の研究も含めてこれまでの脳内言語研究の要約でもある。酒井は左脳の前頭葉に前方言語野(文法と読解の中枢の場)を、同じく左脳の側頭葉と頭頂葉に後方言語野(語彙と音韻の中枢の場)を定め、前方言語野には文法装置に対応する場所として左脳の下前頭回(左下前頭回、ブローカ野を含む)が当たり、それを酒井は「文法中枢」とよぶ。さらに、その「文法中枢」のすぐ腹側(下面)に意味を理解する「読解中枢」(文字を読む時だけでなく、音声や手話の入力を含む)の領域を認める。一方で、「語彙の中枢」(読解中枢とは別の形で意味ともかかわる)は、左脳の頭頂葉に位置する角回・縁上回に、「音韻の中枢」は左側頭葉の上側頭回(ウェルニッケ野を含む)の領域にあるとする。なを角回はゲシュヴインドが感覚統合の座としてその重要性を指摘したことを受けてゲシュヴインド野と呼ばれている。以上の四か所が言語の中核的な脳内領域で、それぞれが相互に密接に連絡しあっている。その連絡は弓状束と呼ばれる神経線維束が担っている。同時にそれぞれは独立した領域をなしていて、入力された言葉を分析し理解するときにも、言葉を合成して出力するときにも両方ともに使用されるものである。

この脳内での情報のやり取りは極めて興味深いものである。私がこれまで述べてきたことは、幻聴が脳内で作成されるのだろうと想定してのことである。幻聴に関わる中核的な現象は、言葉が脳内で作成され音声を帯びて理解されるということだが、そのためにはこの四か所の言語中枢が作動することが不可欠であると私は考える。さらに後に述べる予定の言語に関わる他の領域がどのように関与してくるかも同様に重要となる。もちろんこの主張には飛躍がある、あくまでも一つの可能性として考えてみたいという事である。

脳内でなにが幻聴を作りだす要因となるのだろうか、アンリー・エーは彼の唱える器質力動論にもとづいて陰性症状に幻覚の原因を想定している。別の可能性として私は先(前回)に述べたように、奇形的なアトラクターがその役割を担っているのではないかと考える。そうだとするとそれはこの言語中枢のどこかにできてしまうのだろうか、それとも他の場所だろうか。いずれにせよ、幻覚と脳機能に関しては、未知の部分があまりにも多いのが現状である。

酒井は言語の脳内機構の中核とした四か所以外にさらに関連する脳内の領域を概観している。詳細に触れることは避けるが、小脳、大脳基底核、視床、海馬、扁桃、前頭葉のワーキングメモリーに関連したシステムや発話の出力に関連する運動前野などをあげている。

酒井はチョムスキー理論を研究の中心に据えているので、最も重要な脳内部位は「文法中枢」にあるとする。チョムスキーはその文法中枢の重要な原理に再帰性をあげている。それは脳内ではどのような仕組みで行われているのだろうか。また思考と文法はとりあえず別物と私は思うが、思考はこの文法中枢とどのように関連しているのだろうか。思考中枢とでも呼べるものがどこかにあるのだろうか。チョムスキーは思考と言語を同一視しているように見える。その言語の生成文法と意味と思考の関連が私にはうまくつかめていない。チョムスキーの専門家には笑われてしまいそうなのでこのくらいにしておこう。
 
酒井は脳内の言語プロセスをブラックボックスとみなして表面的な入力と出力を見ているだけでは、人間の脳にある「言語機能」を理解することにならない。このような脳内の情報のやり取り、すなわち「脳内コミュニケーション」と比べれば、他人との間で交わすコミュニケーション(入力と出力)は「氷山の一角」のようなものだと述べている。
 
確かにチョムスキー理論の主張から見るとそうなのであろうが、私は「脳内コミュニケーション」と同じように「他人との間で交わすコミュニケーション」も重要であると考える。幻聴やあるいは妄想に出現する「他者ないし他者性」との言語の入力と出力に関してはもう少しその「脳内コミュニケーション」と現実の他者とのコミュニケーションとを絡めて検討してみる必要があると思う。

さらに幻聴が脳内で作られると考えられるとしてもその幻聴の声の多くが外部の空間に定位する現象を脳内機構と絡めてどう理解したらよいだろうか。音源定位の脳内機構も不明な点が多いのが現状である。さらにその先に私が「知覚もつれ」というメタファーで呼んだ難問が控えている。

 幻聴の生物学的背景

次にもう少し幻聴の脳内における病態生理に関して見ておきたい。ここでは福田正人の「統合失調症の幻聴の生物学的背景」という論文を参考にさせていただく。福田によると、Woodruff(2004年)がこれまでの脳機能画像研究を総説して、統合失調症の幻聴の特徴と脳機能との関連について解明を要する点とその脳構造の候補を次のようにまとめている。

「①言葉として聞こえてくること(側頭葉のHeschl回・上側頭回・Broca野・中側頭回);②実際の声のように聞こえてくること(側頭平面);③注意の影響を受けること(前頭帯状回・後部帯状回・視床);④情動的な反応が引き起こされること(扁桃体、・島・海馬傍回);➄情動的な記憶と関連すること(海馬・扁桃体);⑥本人が望まない声でありコントロールできないこと(補足運動皮質・前部帯状回・前頭前部皮質・腹側線条体・海馬傍回);衝動性と結びつくことがあること(前頭葉眼窩回)」

ここで挙げられたことには幻聴への二次的な心理反応も含まれているが、幻聴にはこのように極めて広範囲の神経ネットワークの異常が存在することが示される。しかもそれはこれまでの統合失調症で異常が指摘されている部位とよく一致していると福田は述べている。

なお②で挙げられている側頭葉平面は特にその左側の障害は人声の空間定位に関係している可能性があると言われている。福田の論文は興味深い指摘がいろいろ盛り込まれているのだが、ここではもう一か所だけ触れさせてもらう。それは内言と外言の想像に関連したことである。福田によると「内言の生成は左半球の下前頭回・島・側頭前頭皮質、右半球の小脳・補足運動野の活性化関連しており、外言の想像はこれらに加えて両半球の中心前回・上側頭回の活性化が関連していた。この所見は、内言の生成や外言の想像においても構音ループが活性化されており、さらに外言の想像においては聴覚についての自己モニタリングが重要であることを示すものと考察されている」という。

Woodruffや福田がとらえる、幻聴に関連すると考えられる脳内の広範囲な機構は普通の会話での言語活動で作動する部位でもあるとみて良いだろう。つまり、ここでは基本的に外部や末梢神経からの刺激がない状態で脳内に出現する幻聴が、通常の言語活動と同様に構成されている可能性を示唆するエビデンスが徐々に集積されてきていることを示しているとみてよいだろう。

 

②幻視の脳内機構

 視覚の脳内機構

人間の視覚情報処理に関わる領域は大脳皮質の30%を占めていると言われている。視覚が人間にとっていかに重要な情報源であるかをそのことは物語っている。はじめに、クリストフ・コッホ著「意識の探求」や渡辺正峰著「脳の意識 機械の意識」などを参考にさせていただきながら、視覚の脳内地図(マップ)を見ておくことにする。視覚の脳内地図は聴覚よりははるかに詳しく研究が進んでいる。その脳内地図にもとづいて幻視がどのように脳内で成立しているのかを考えてみたいと思うのだが、残念ながらわかることは極めて限局的である。

視覚は、光が眼球の角膜とレンズを通過したところから始まる。光はそこで焦点を合わせられて網膜の光受容体に吸収される。網膜は二次元の曲面である、ここで光は電気信号に変換される。網膜のニューロンは光の波長情報をコードし、空間的、時間的コントラストを高める。網膜からの情報の90%は、視交叉を経て、視床にある外側膝状体(LGN)に送られる(ちなみに、聴覚は内側膝状体を経由する)。網膜からの一部の線維は中脳の上丘(聴覚は下丘)に送られて、自動的な視覚運動を起こすために使われる。

外側膝状体は後頭葉の第一次視覚野(V1)へとつながり、網膜と大脳の中継点の役割を果たしている。外側膝状体からV1への前向性のフィードフォワード投射と並行して、V1からの後行性のフィードバック投射が出されているが、前者と比較するとこの逆向きの投射が圧倒的に多いことが知られている。V1での視覚処理は有名なヒューベルとウィーゼルにより発見された。V1のニューロンは、図形の端、線分、格子などの、傾きを持った線分に反応するコラム構造を形成していることが分かった。さらに、その線分の明暗に対しても様々に反応し、動きや色彩に関しても何らかの反応をしているようである。また立体視に関連する両眼視差の情報も検索していることが分かっている。これらは形の知覚の基礎になっている。 なおV1をはじめ脳の視覚情報の処理にあたって、外界の空間情報である、上下左右の視覚部位の情報は網膜座礁に依存して一定であることも分かっている。

第一次視覚野(V1)からの視覚路は腹側視覚路と背側視覚路の二つに枝分かれして、前頭前野外側で再び収束する。腹側視覚路はV2、V3、V4を通って下側頭葉(IT)に至り、そこから前頭前野腹外側部に投射する。この視覚路は、形や輪郭、色の解析に関わり、物体の識別を担う(なに、what経路と呼ばれる)。なおV1からITに進むにつれてカバーする視野角が広まっていくことも知られている。数分の一程度からITでは数十度になる。背側視覚路はV1、V2から中側頭葉(MT)へと進み、さらに後頭頂葉(PP野)に至る。その後遠く離れた前頭前野背外側部に投射する。この視覚路は空間、動き、奥行きをコードしている(どこ,where経路と呼ばれる)。

ここでは腹側視覚路に関してもう少し詳しくみておきたい。V2はV1とは違って主観的な輪郭線にも反応する、また線分で作られる奥行き、運動方向、明暗などにも反応する。V3、V4では角や曲線、線分の交わりなどに応答するようになる。

最高位のITでは顔や手や文字や風景などの特定の視覚刺激に反応するニューロンが知られているが、そうした特定化は例外的で一つの視覚対象は中程度の図形部分に分解されて認識されていると現在は考えられている。どうやら。顔にしても幾つかのパーツに分けて認知されているようである。そうした中程度に複雑な形状を藤田一郎は、「図形アルファベット」と名付けている。

ところで、人間が見ている色彩は外部にあるのではなく、脳が作り出すものである。色に選択的なニューロンはV4にあることは知られているが、それだけではなく人間では、後頭葉と側頭葉の腹側表面の紡錘状回にもあると言われている。

二方向に分かれた視覚路はお互いに情報を交換し合ってもいるし、おそらく聴覚などの他の感覚情報とも、記憶や情動の情報とも接点がありそうであるが、最終的に前頭前野で交わることになる。

その前頭前野には短期記憶を処理している、ワーキングメモリ(作動記憶)がある。ワーキングメモリは中央実行系の制御を受けて、音韻ループ(言語性ワーキングメモリ)と視空間的スケッチパッド(視空間ワーキングメモリ)その他の情報を扱うエピソードバッファーの三つのサブシステムを有し、さらに海馬などからの長期記憶のシステムがそれぞれに関与しているとするモデルである。

ところで、そこでの視覚情報はどのように展開されているのであろうか。実際に我々が体験している視覚風景がそのまま一時的にせよ保存されているのだろうか。どうもよくは分からない。これまで見てきたように視覚情報は様々な仕方で分解されて、分散処理されている。それがどこで全体として統合されているのであろうか。また必ず知覚はそのつど記憶とのマッチングを行っていると思われるが、そのさいの記憶とはどこにどのような形で存在しているのだろうか。

網膜の二次元情報が分散されながら、たとえば両眼視差や左右の視覚風景情報をもとに、三次元情報に変換されていくのであるが最終的な映像はどこでどのように組み立てられるのだろうか。藤田は「脳がつくる3D世界」で現在の三次元視の研究状況を生き生きと伝えてくれている。現代の3D映画の画像は脳が実際に再構築しなければ立体視にはならないという、すこし考えれば当たり前のことすらこの本で改めて私は気づかされた。またMT野が粗い奥行き視に関わるものの細かい奥行き視には貢献しない、V4野が細かい奥行き視に関わるという生理的な知見が得られつつあるようだということも教えられた。

しかし視覚の脳内機構はどれをとってもまだまだ不明なことが多いのが現状のようである。もともと視覚情報は外部からの情報をもとに色彩を含めて相当部分が脳内で作られている。しかも視覚情報はいったんボトムアップによって前頭前野までたどり着いてさらに情報加工されたあとに、この前頭前野からまた逆向きに線維が下行していき、二つの視覚路をたどりV1を経て外側膝状体まで電気信号と化学信号でリレーをしながら情報を伝達していることが知られている。しかもこのトップダウン的なフィードバック情報は視覚情報処理の80%近くを占めているとみられている。網膜からの視覚情報は脳内の視覚処理にあっては20%程度の役割しか果たしていないのである。この事実も視覚の相当部分を脳が作成している可能性を指し示していると言えるだろう。

脳が夢の映像を作り、映像で記憶する直観像の持ち主がいることを考えると、脳が幻視を作成することは決してありえないことではない、むしろあたりまえと考えてみるべきではないだろうか。それは決して奇妙な考えではないだろう。

以上、不十分ながら視覚の脳内処理過程(視覚ネットワーク)をめぐる脳内地図を眺めてみた。さて実際に患者が体験したと述べる幻視の風景が、この地図のどのあたりでどのように作られるのだろうか、そしてその風景がどのようにして外部に展開されるのだろうか。


 幻視の脳内機構

言うまでもないが後頭葉が視覚の重要な舞台である。fMRIによる幻視の研究でも後頭葉がその主座であると見なされている。しかし、幻視に関連した脳の領域はもっと広範囲のものである。

確かに後頭葉はすべてが視覚機能に関係していて、ブロードマン領野の17野(V1)、18野(V2)、19野(V3、V4など)をしめる。17野の電気刺激によって光視が生じ、19野の電気刺激で複雑幻視が起こることは古くから知られていた。幻視には、光点、直線、円、火花などの見える単純な光視と、人や動物、物体などの見える複雑幻視がある。さらに過去の経験や状況などの見える経験性幻視も知られている。この幻視は側頭葉や頭頂葉の損傷で起こるとされている。

幻視は外因性精神病に多いと言われているが、統合失調症にも出現することがある。また解離性障害に多くみられることも知られていて、決して外因性精神病に特異的とは言えない。さらに幻視には意識変容状態の時の幻視と意識が清明な時の幻視が区別される。意識変容時にはせん妄や、夢幻様状態のなかで複雑幻視が認められる。

ここでは精神医学的な幻視の多様な様相にはこれ以上の深入りは避けておきたい。

我々が体験する時空間には普通に知覚が成立しているリアルな時空間と、夢を体験している時空間、表象(イメージ)によって体験する時空間、そして幻覚体験時の時空間、さらに近年ではデジタル機器が関与する時空間(例えばメタバースの中の時空間)などがある。幻覚時の時空間は夢や表象のように外部に知覚される実体がないのに患者には実体のあるリアルな知覚のように体験されるもので、ここでは仮想的な時空間(バーチャルな時空間)としておきたい。ただしリアルな時空間も、たとえば外部の物質に色がついて見えるのは先に述べたように脳によって構成されたからであって、現実の物質に色がついているわけではないことを考えると、通常の知覚自身すでに仮想的(バーチャル)なものである。しかし幻覚との区別のためにリアルとしたことをお断りしておきたい。真のリアルはたとえばカントの言う物自体だけからなる世界とでも言うべきだろうか。

私は幻覚の中でも特に意識が声明で、リアルな時空間のなかに忽然と現れた幻視や幻聴などに関心がある。つまり、リアルな時空間上に生じるバーシャルな時空間に関心がある。

具体的に考えてみるために、視力障碍のある患者の幻覚体験の一部を引用してみる。

 カーテン越しに、青や赤の光が当てられているのが見えはじめ、夜になると人が見え出したり、繰り返し格子戸のようなものが見え、触ろうとすると消えてしまう、また部屋の模様がくるくる替わるので自分が部屋のどこにいるのか判らなくなる。子供や大人が見える、アイマスクをしても見える、つかもうとしても何もつかめない。

青い鳥が飛んできて周りがびっしり鳥だらけになる、ひよこの鳥もいる。カーペットに鳥の羽がついていたり、鳥についている人がいて、みんなの幸せのためという。たくさんの人がいて、人間とは違う感じの人もいる、大きい鼻や、大きい足をしていたり、内臓のない体をみせてくれる人もいる。片目が赤くもう一方が青い人や、背中に5人くらい子供を背負って人、赤い頭の真ん中に角の生えた人、ある人は、腕の中にスイカのようなものを抱えていて上からきって食べているがくさい匂いがする。また話ができる人と、できない人がいる。…幻視の相手に物を取られたり隠されたりすることもあるという。なお、幻視の場面は、はっきり見えるが周りはぼやけていて不思議だという。

 
この患者は極めて清明な意識状態にあって、体験している幻覚は、幻視を中心にした幻想的なもので、幻聴や幻臭と思われる状態も認められている。こうした複雑な幻覚が脳内でどのように生成してくるのだろうか。考えてみようとしても手掛を探すにも困難をきたすのが現状である。

通常の知覚は視覚や聴覚や味覚などの感覚が個別に表現されるのではなく、複数の感覚が同時に作動している多感覚知覚と呼ばれる状態が本来のあり方である。しかし多感覚知覚にまで広がった幻覚は極めてまれである。

ここでは幻視だけを取り上げてみよう、はじめはV1の活性化で生じる光視とも思われる光が見えていて、夜には人物が見えたりしていたが、次第に複雑な幻視が増えていったようである。色彩がついていて、動きを伴い、たくさんの青い鳥やたくさんの奇妙な人物が自分のいる部屋の中に見えている。しかも興味深いことに、リアルな空間の見え方は視力障害を反映してボンヤリしたものであるが、幻視ははっきりと見える。幻視がぼやけたものにはなってはいないのは、本人の障害された網膜が幻視には関与していないことを示していると考えられる。

少なくともこのような幻視が出現するためには、先に触れた視覚の脳内機構で分散処理にあたる後頭葉や側頭葉、頭頂葉、あるいは前頭葉のそれぞれの部位が活動しさらに他の部位の活動も加わっているのだろうと私は考える。この症例は幻視に色彩や動きが伴っているが、必ずしもすべてのケースでそうだというわけではない。顔は見えるが白黒で動きもしないという患者もいる。それは色彩や動きと関連したコラム群が活動していないからと私は理解したいと思う。

もちろんこのような視覚の脳内地図が幻視の形成にも関与しているという見方が妥当か否かは更なる研究が必要である。

幻聴にせよ幻視にせよそれが出現することを可能にする脳内機構を考察することは時期尚早であるというべきかもしれない。しかし研究は進展中である。私のような臨床的な体験しか持たない者でも、患者さんたちの語りを手掛かりにさせていただき考えてみる余地がまだ残されていると私は思っている。

終わりに幾つかの疑問を提出しておきたい。一つは幻覚の形成において通常のリアルな時空間にバーチャルな幻覚がどのように組み込まれるのか、あるいは書き込まれるのかということである。その際に脳内のリアルな時空間を体験している知覚機構はどのような影響を受けそれを処理しているのだろうか。幻覚体験時には通暁の知覚機構が部分的に抑制されているのだろうか。もう一つの疑問は、幻視で人間の顔が出現しやすいのは分かりやすいが、なぜ虫が猫や犬のようなありふれた動物よりも多いのかということに私は興味があり、疑問がある。さらに先にふれた視覚のアルファベットという概念はなるほどと思うが、外部の視覚情報を、人はカテゴライズして認知していると思われる。たとえば鉱物、植物、人(顔や手や他の部位)、動物(哺乳類、ペット、鳥、爬虫類、魚類、虫など)、その他の生きもの、風景、などといった具合である。海馬を含めた記憶の領域や、側頭葉の視覚領域などで、そのような形でのカテゴライズを受け持つコラム群が存在しないのだろうか。言語的な脳内辞書にはそうしたカテゴライズが存在しているようである。言語と視覚は脳内で当然ながら連動もしているはずである。  
                             つづく



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