見出し画像

散歩と雑学と読書ノート


千歳川

読書ノート


「街のカフェ」、「町の本屋さん」、「まちライブラリー」


1 はじめに


私が街に出掛けて、最もよく立ち寄る場所は喫茶店(カフェ)と書店(本屋さん)である。そこは私にとって大切な居場所である。さらに、図書館(ライブラリー)と映画館もまた私の大切な居場所であり、若いころは飲み屋さんも大切な居場所だったが、最近は足が遠のいたままである。

今回は喫茶店と本屋さんと図書館という三か所の居場所に関連したことを書かせていただきたいと思う。

私は喫茶店をほとんど読書のために利用している。つまり、私にとって大切な三か所の居場所はどれも読書と関係している。

近年徐々に、電子書籍が増えてきていて、最終的にどうなるかはまだ不明だが、いつの日か紙媒体の書物は消滅するだろうと予想されている。それは活字や出版や書物が作りあげてきた文化的なシステムの消滅を意味する。私は生きている間はそうなってほしくないものだと思っているが少しずつそうなりつつある。それに代わる電子システムも徐々に形成されてきている。グーグルはあらゆる書物の電子化を考えているともいわれる。そもそもいま私が書かせてもらっているこのnoteもwebを通じて発信され、スマフォで読まれる電子媒体の情報である。紙の書物が消滅したら、読書はもっぱらスマフォを手にして行われるのだろう。

仮に紙の書物がなくなり本が電子化されたら、本屋さんも図書館もさらに喫茶店も影響を受けざるを得ないだろう。

本が電子書籍化したら、第一に本屋さんが存在できなくなる。そうなった時に読書を巡る環境はどうなっているだろうか。

現在のところ本の出版はある程度順調になされているようにも見える。しかし電子書籍とは無関係に、出版業界は不況で、本屋さんはピンチだという。確かに昔から見ると本屋さんはずいぶん減ってしまった。札幌あたりでも特徴的な小さな本屋さんを見かけなくなった。千歳市でも2019年に街で一番の本屋さんが閉店してから、私は「イオン」の中の小さな本屋さんに注文して本をとりよせている。本を受け取って立ち寄るのも「イオン」の中の喫茶店である。そこは私にとってとても大切な居場所である。
現在の本屋さんのピンチは、ネットで本が買われるようになっていることの影響が大きいとみられている。また人々が本を読まなくなってきていることも本屋さんのピンチに影響していると言われるが実態はどうなのだろうか。

電子書籍が中心になっていくと図書館も様変わりせざるをえないだろう。現在の図書館の機能を電子システムがどのように代替していくのだろうか。そもそも図書館が存続できるのだろうか

さらに喫茶店はすくなくとも読書のために必要な居場所ではなくなるだろう、スマフォを見るために喫茶店に入るという事は考えずらい。もっとも、私のように読書のために喫茶店を利用するというのはすでに時代遅れの行為なのかもしれない。
ところで、喫茶店はコーヒーという飲み物があったから栄えてきた。現在そのコーヒーの生産にさまざまな問題が生じているようだ。コーヒー生産の労働環境の悪化や、世界のコーヒー生産量の6~7割を占めるアラビカと呼ばれるコーヒーノキが病虫害に弱く、近年の地球温暖化により、その生産エリアが縮小されてきているという。そのためにコーヒー生産のサスティナビリティー(持続可能性)が疑問視されている。コ―ヒーが今のように流通できなくなったら、喫茶店は読書がどうなるかの前に消滅するかもしれないのだ。

いささか極論を述べすぎてしまったが、私にとって大切な三か所の居場所は、これから先に消滅するかもしれない危うさを抱えているのだと私はとりあえず認識している。

他方で、喫茶店や本屋さんや図書館の関係者はさまざまな知恵を働かせて、利用者の関心やニーズに合わせて役立つように、そしてよりよい居場所を提供できるように試みている。そうした努力は、今後どのように事態が推移しても、今を生きる人だけでなく未来の人のためにもなる事だろうと私は思っているし、そう願っている。


2 喫茶店(カフェ)とはいう場について

私の手元にコーヒーや喫茶店に関連した書物が何冊かある。その中からの数冊を紹介しておきたい。

ウィリアム・H・ユーカーズ著「ALL ABOUT COFFEE  コーヒーのすべて」(角川ソフィア文庫)は、「本書を読まずしてコーヒーを語るなかれ」と言われる、コーヒーの世界的なバイブルのハンディ版である。本書は原書があまりにも大部であるので、歴史を中心に、その約80%の抄訳、部分的要約で成り立っている。私は第一章「コーヒーの伝播、飲用普及の歴史」と第二章の「ロンドンのコーヒーハウスの隆盛、パリのカフェの賑わい」に特に興味を惹かれて読んだ。

ユーカーズの著書には日本のことは書かれていない。日本のコーヒーの歴史に関しては、奥山儀八郎著「珈琲遍歴」(旭屋出版)が詳しい。著者の奥山はもともと版画家である。本書は江戸時代から昭和初期までの珈琲史である。
本書では、江戸時代に南蛮人(英国やポルトガル人)や紅毛人(オランダ人)により伝えられたコーヒーの事情が、長崎を中心に書かれ、海外漂流者や海外渡航者の珈琲記事が紹介されている。また明治21年(1888)に開業した日本初の「珈琲店」である「可否茶館」やその後に続く「ダイヤモンド珈琲店」や「プランタン」や「カフェー・パウリスタ」の歴史が比較的詳しく書かれている。さらに付録として「日本珈琲文献小成」が載せられていて日本の文献の原典に触れることができる。

臼井隆一郎著「コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液」(中公新書)は、コーヒーと近代市民社会の形成との間の深いかかわりを検討した著書である。

エチオピアの高原や中央アフリカの西部原産のコーヒーの木から誕生したコーヒーはイスラム圏でスーフィズムと呼ばれる神秘主義の修道僧に支持されて広く飲まれ、コーヒーの家を作り出した。それが西欧に伝わって、ロンドンではコーヒ・ーハウスとなりパリではカフェと呼ばれた。

最初のコーヒー・ハウスは1652年にロンドンで開店した。店主はシチリア出身のパスカ・ロゼである。コーヒーハウスはたちまちのうちに数を増やしていった。当時のイギリスはピューリタン革命の最中で、それに続く王政復興の時代にかけてコーヒーハウスはそれまで欠けていた近代市民社会の多くの制度を準備する公共の場としての役割を担った。そこには最新情報を満載した定期刊行物、郵便、株式仲買人、各界の情報通が集まってきた。人々を引きつけたのはコーヒーと呼ばれる黒い苦い飲み物それ自体というよりは、新種の公共の場の魅力であり、真の標品は情報であった。……人に会い、お喋りし、歓談し、仕事上の用件を済まし、そして何よりもまず政治上のニュースを聞き、重要な出来事について話し合い、検討するためにコーヒーハウスに寄り集まってくる」と臼井は当時の状況を書いている。
コーヒーハウスは男のためだけのものであったことも悪影響してやがてすたれて、イギリスは紅茶の国となった。

フランスでの最初のカフェはアルメニア人のパスカルが1672年にサン・ジェルマンで年の市の模擬店として開店した。カフェは始めから女性も入るのが普通のことで、イギリスとは異なって今でもフランスの文化の一部として根付いている。

パリのカフェはフランス革命の際にも存在意義を発揮した。

18世紀最高の知性と称せられたヴォルテールをはじめ、ディドロ、ダランベール、ルソー等が、パリのカフェの原点と言われる、カフェ・プロコープに集い、啓蒙活動を展開した。アメリカから訪れていたフランクリンも常連で、彼はアメリカ的自由を伝えていた。カフェ・プロコープでのフランクリンはフランス革命とアメリカ独立の思想を繋ぐ象徴的存在であった。1790年アメリカでフランクリンが亡くなると、彼を悼んでカフェ・プローコプには半旗が掲げられた。
1789年7月12日、カフェ・ド・フォアのテラスから群衆に向けて一人の青年、デムーランが「武器をとれ」と演説を行なった。そして味方の印として街路樹の緑の葉を身に着けるように訴えた。デムーランはこのカフェに拠点を置く革命派政党ジャコバン・クラブに出入りしていたジャーナリストである。かくして、7月14日市民がバスチーユ監獄を襲撃し、フランス革命が始まったのである。

臼井の本はやや読みずらいところがある。その点、旦部幸博著「珈琲の世界史」(講談社現代新書)はコーヒーをめぐる優れた通史である。上のフランス革命の説明は旦部の本も参考にさせてもらった。本著は世界のみならず、日本の珈琲や喫茶店をめぐる知識もしっかりと纏めて知らせてくれる名著であると私は思う。

フランスのカフェはフランス革命のときだけでなく、20世紀の前半から第二次大戦にかけても多くの天才たちを含めた知識人の居場所であり避難場所であった。パリの住環境が悪く寒さをしのぐためにもカフェは恰好の居場所であった。そこで多くの思想や運動が生まれ、友情が生まれた。そこは芸術活動や思想活動や政治活動が絡み合う世界の知的な中心地であった。

いま私の手元にある当時のパリに関して書かれた本を何冊か挙げておきたい。第一にカフェ文化研究家を自称される、飯田美樹著「cafeから時代が創られる」(いなほ書房)が面白かった。
20世紀前半のパリのカフェに集まった天才たちや常連たちへの思いがあふれる、良著である。当時は、アポリネール、ピカソ、エコール・ド・パリの画家たち、ブルトンなどのシュールレアリストたち、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、サルトルやボーヴォワール等の人々がカフェという場を利用していた。

飯田の著書でもヘミングウェイに関して書かれているが、彼は1921年から1926年までパリで過ごした。私はヘミングウェイ「移動祝祭日」のなかにある「サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ」というエッセイが好きである。

パリに関する書物をもう一冊だけあげさせてもらうと、H・R・ロットマン著「セーヌ左岸 フランスの作家・芸術家および政治:人民戦線から冷戦まで」が手元にある。

私は砂川市立病院を退職した2007年に妻と二人でパリへいった。パリで日本人のメンタルヘルス専門のクリニックを開設し、「パリ症候群」の著者である友人の太田博昭先生のオフィスに泊めてもらい、パリの観光をした。その際にサン=ジェルマン=デ=プレのカフェ・ド・フロールのテラスでサルトルやボーヴォワールの時代に思いをはせながらコーヒーを飲んだことがその時の思い出の一つとなっている。


パリに関する事柄はこのくらいにして日本の珈琲事情に戻ってみておきたい。ここでも旦部の「珈琲の世界史」を参考にさせてもらう。

旦部は日本人で始めてコーヒー飲用体験記を書いたのは1804年の大田蜀山人の記事と言えるだろうと紹介している。
蜀山人はオランダ人の船で飲んだコーヒーの味に次のような感想を述べている、「紅毛船にて『カウヒイ』というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず」(大田南畝「蜀山人全集・巻三」より)

先に奥山の本の紹介のところで日本の喫茶店の始まりに関して触れたが。旦部の記事も参考にしてもう少し詳しく述べておきたい。

明治21年(1888年)に日本初の「珈琲店」である「可否茶館(かひさかん)」を上野黒門町で開業したのは、鄭永慶(ていえいけい)である。彼は当時上流階級の社交場であった鹿鳴館に対抗して庶民の社交場を目指して、「可否茶館」には文房具室やビリヤード、トランプ、クリケット場、将棋、碁、さらには内外の新誌を備えていた。彼はフランスの珈琲館(カフェ)がよく文士、詩人、画家などの集合所となっていることを説明しそれに擬せんことをと述べている。また開業早々のある日、神田の共立学校の生徒によって英語劇が上演されたこともあった。しかし、「可否茶館」は時代を先取りしすぎていたのか、経営がうまくいかず、4年で廃業せざるを得なかった。鄭永慶はその後アメリカに渡りシアトルで病死している。時代が鄭永慶に追いつくためには明治の末まで待たねばならなかった。

明治44年(1911年)3月に銀座で、洋画家の松山省三等が「カフェ・プランタン」を開業した。同8月には銀座に「カフェ・ライオン」が生まれ、同じく12月にはブラジル移民の父と呼ばれる水野竜が「カフェ・パウリスタ」を開業した。水野はブラジルのサンパウロ州から長年コーヒーの無料提供を受けて「カフェ・パウリスタ」では安いコーヒーを提供して庶民や学生に利用された。さらには芥川龍之介や久保田万太郎、平塚頼てうなどが利用し、文化の発信地となっていく。
パウリスタはまた北は北海道から南は九州、そして上海にまで支店を開いて、初の喫茶店全国チェーン店になった。

奥山は「珈琲遍歴」の中で日本の珈琲店の先駆者は、明治21年の「可否茶館」の鄭永慶であるが、この人は失敗者であり、……水野竜は実践者であり、功労者である、日本の珈琲業者は二人を記念しなければならないと記している。

最後に山納洋著「カフェという場の作り方 自分らしい起業のススメ」(学芸出版社)を挙げておきたい。私は若いころから自分なりの喫茶店を作ってみたいと思ってきた。もはやかなわぬ夢だが本書を読みながら、久しぶりに私はありえたかもしれない私の喫茶店を夢想してみた。夢想の良さはお金がかからないこと、夢想しながら散歩もできること。問題点は想像力の乏しさが露呈して少しがっかりしてしまうことである。

あえて私の夢想の喫茶店に少しふれてみると、それは病院に接続した情報センターの一角を占め、小さい本屋さんと図書館も併設されて三位一体となっている、喫茶店は外部に開かれた多目的ホールとしての機能も持っている。同時に私のような人間も気楽に立ち寄れる居場所であり、自然な出会いの場所でもある。
情報センターではデジタルな情報を含めて個々人が必要な情報にアクセスでき、また医療情報を含めた情報の提供や解説を行う場である。さらにデジタル情報文化やアナログな情報に関しても学習でき研究を行う場である。

3 「町の本屋さん」について

私は本屋さんが好きで、学生時代から考えると随分多くの時間を本屋さんで過ごしている。その本屋さんが先に述べたように少しずつ少なくなっていることは何ともさみしいものである。

そんな中で色々と工夫をしている本屋さんがある。ここでは北海道の砂川市にある「いわた書店」の店主岩田徹さん「一万円選書 北国の小さな本屋が起こした奇跡の物語」(ポプラ新書、2021)のことに触れたいと思う。私は「いわた書店」はよく知っていて、お世話になった。私は砂川で過ごした約27年の間にずいぶんたくさんの本を注文して取り寄せてもらった。さらに岩田徹さんにはアニメの「隣のトトロ」が面白いですよと教えてもらった。彼はまた文化的活動にも力を尽くしていて、筑紫哲也氏や網野善三氏などを呼んで講演会を開いていた。ちょうどオーム事件のあったころに、この事件に詳しい精神科医を演者に迎えたいという岩田さんの希望で私は友人の精神科医を通じて協力をしたことがある。

本著によると、岩田さんは私が砂川を離れて千歳に移った2007年ころから、「一万円選書」を始めている。きっかけになったのは、「本が売れない」と窮状をこぼしていた時に函館ラサールの先輩が、1万円札を出して「これで、俺に合う本を見繕って送ってほしい」と言われたことだと言う。
「一万円選書」を始めて7年後の2014年に、テレビ朝日の深夜番組にとりあげられ、それを見ていたスマフォ世代の人たちがSNSで広げてくれて突然
「一万円選書」がブレイクしたという。

「一万円選書」とは、応募者の中から、毎月100名を抽選で選んで、「選書カルテ」に記載してもらい、その人に合うと岩田さんが考える本を一万円分選んで送る仕組みである。カルテにはたとえば、これまで読まれた本で印象に残っている20冊を教えてください。これまでの人生で嬉しかったこと、苦しかったことは? 何歳の時の自分が好きですか? などという事を書いてもらうのだという。岩田さんはさまざまなジャンルの本を読み込んで選ぶのだろうがなかなか大変な作業だろう。それでも送られた本に関する反響を受け取ったときの岩田さんの喜びが、本書の記載からよく伝わってくる。「一万円選書」が「コミュニケーション選書」とも呼ばれるという事はよくわかる気がする。

この記事を書いている途中の4月21日に私は北海道新聞の『読書ナビ」というコーナーの中で「町の本屋と言う物語」(奈良敏行著、作品社)と言う本の紹介文を読んで、岩田さんとはまた違う形で工夫している本屋さんのあったことを知ることができた。

著者の奈良は1980年に鳥取で「定有堂書店」を開店した。「本が好き、本屋が好き、本が好きな人が好き」という思いを抱いて開業したという。小規模ながら人文書主体の本屋を確立、客が欲しいものは必ずある本屋を目指した。品ぞろいだけでなく、知を求め集まってくる客を講師に迎えた店内講座や、ミニコミ制作などで来店客同志をつなげるなど何年も何十年も続く活動がそこで生まれていった。そうした奈良が作りあげた「定有堂書店」が、「本屋の青空」という町の本屋の気概を例えた言葉を残して昨年惜しまれつつ閉店したという。

4 「まちライブラリー」について


千歳のまちライブラリー


「まちライブラリー」を提唱した礒井純充の著書まちライブラリーの研究『個』が主役になれる社会的資本づく」 (みすず書房、2024)を読んだ。

まちライブラリーは、誰でも始められる私設図書館であると礒井は書いている。そしてまちライブラリーは、「本を所蔵していなくとも本を持ち寄り、お互いに閲覧、貸出などを通して人とつながることを目的として2011年に始まった。まちのカフェ、お寺、病院、自宅、オフィス、商業施設など多様な場所に展開され、2023年3月現在、全国で1000カ所を超えるまでになった」と続けている。さらに、図書館を宇沢弘文のいう「社会的共通資本」の一つと考え、「まちライブラリー」を材料に「個」と「社会」の関係性について考察したいと本書の目的を述べている。

ここでは、本書でふれられている千歳市の「まちライブラリー」に関する記事についてすこし紹介させていただくことにしたい。

2016年12月23日、大雪の中で「まちライブラリー@千歳タウンプラザ」が開館した。オーナーは新千歳空港ターミナルの運営会社である北海道空港開発の子会社セントラルリーシングシステム株式会社である。本書の著者礒井は前年から相談を受けてかかわりを持っている。設置場所の千歳タウンプラザは、かってはまちの中心地に位置し、地元デパートや多くのテナントが入居する商業施設として市民に親しまれてきた。がらんとなった、その場所を地域のコミュニケーションセンターとして再生するための目玉として「まちライブラリー」が設置されたのである。

ライブラリーは順調に成長し、2万5千冊を超える寄贈図書があり、広い閲覧室、カフェ、4室の会議室を備えて会員2千名、年間7万人の来訪があった。私も近くのビルにある精神科クリニックに勤務していたこともあり会員となって利用させてもらっていた。しかし、新型コロナの影響で空港ビジネスがひっ迫しオーナー会社が2021年3月をもって閉鎖すると発表。私も通達を受けたときはとてもがっかりした。その後一部の有志が存続に向けた動きをしていると聞いていたが、本書によってその動きの様子をよく知ることができた。

存続を求める署名などを受けた市役所が地元高校生や大学生へのアンケートを行い大多数の学生が存続を希望していることを知り、礒井とも相談して存続へ向けての補正予算を2021年の7月に決定した。その時の議会には40名近くの高校生が膨張人としてきていたという。

異例とも思われる速さで、新しいラブラリーが2022年1月にJR千歳駅の裏手にあるホテルの一角に誕生した。スペースは以前のライブラリーから見ると随分狭くなったが、学生や私のような年配者などが利用し、様々なイベントが企画されている。

私は出席しなかったが本書の読書会も行われていた。最近の企画では、「支笏湖と山線~王子軽便鉄道~」に関する講演会がとても私には面白かった。支笏湖から流れ出す千歳川の出口のところに「山線鉄橋」と呼ばれる朱色の橋が架かっている。そこには1908年(明治41)から1951年(昭和26)まで「山線」と愛称されていた森林鉄道が走っていた。小さなSLが苫小牧王子製紙から千歳川流域にある5カ所の王子製紙の水力発電所を結んで、木材を運び、お客を乗せ、発電所への物品を運んでいた。SLが走る様子をジオラマで見せていただいた。


支笏湖から流れる千歳川の出口と山線のジオラマ


山線を走るSLのジオラマ

本書のなかで、礒井は2022年9月の「ちとせまちライブラリーブックフェスタ2022」のイベントを紹介して、次のように述べている。

「まちライブラリーが単に本のある場所から、地域活動の核になり得る可能性を秘めた活動となったといえる。……、このような地域の人たちの思いをさらに昇華させ、市内中心部のエリアマネジメント(まちづくりのソフトづくり)につなげようという動きも出てきており、千歳市のまちライブラリーの活動はこれからも目が離せない」


5 おわりに


千歳空港から見た半導体工場ラピダスの工事現場
千歳の文化にラピダスは何をもたらすのだろうか?


千歳空港で松本から到着予定の娘と孫と犬を待っている間に、空港の小さい本屋さん(紀伊国屋書店)で買った、島田雅彦著「散歩哲学 よく歩き、よく考える」を開いたらいきなり「チャランポラン」という言葉が書かれていた。島田は「用もなく、ほっつき歩くことをペルシャ語ではチャランポランという。まるで自分の態度や生き方にも当てはまるコトバだが、漠然とどこかをほっつき歩きたい時の精神状態は確かに「チャランポラン」という表現がふさわしい」と述べている。

私は自分の散歩を「徘徊」と自称していたが、島田の言葉に触れて、これからは「チャランポラン」と呼ぶことにしようかと思った。そして千歳のまちを「チャランポラン」する途中で立ち寄れる喫茶店や本屋がもう少し増えるとよいのだがと思った。さらに「まちライブラリー」がもう少し広いスペースが持てるとよいのだがとも思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?