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服から私のことを推し量られない自由がほしい。

いっそ、ムスリムになりたい。
いっそ、制服を一生着ていたい。

そしたら、何も考えずその決まった服を着ていれば良い。服から、内面や性格を推し量られることも無い。なんて気楽なのか。

大学生になるとき、私は強くそう思った。
制服にすっかり慣れた私は、毎日私服で、多くの知り合いの中で過ごすという日常に耐えられそうになかった。制服なら毎日同じ模様のスカートでも、同じブレザーを着ていても、何もおかしくない。毎日代わり映えしなくても、別に良い。制服だもの。

私が服に興味なくても、そんなに目立たないし、おかげで私も罪悪感を感じなくて良い。たくさんの種類の服を持って無くてもいい。着こなしとかできなくてもいい。毎日これさえ着てれば良くて、しかも、冠婚葬祭にもつかえる。制服だもの。

私の学校は規則がおおらかだったのも、私の制服への愛を深めたのかもしれない。指定のスカートさえ履いていて、襟のある服を着ていれば良かったのだ。ポロシャツとか、ワイシャツとか、パーカーとか、適当に着ていた。

制服は息苦しいものではなかった。それでいて、「制服」なので、なんとなく指定のスカートをはき、ワイシャツを着て、ブレザーを羽織ればそれで良いという安易さがあった。

なぜ、私はこの服をチョイスしたのか。私はどんな人間なのか。私はどう見られたいのか。そんなことを自分に問いかける必要も、格好で不特定多数の皆々様に説明する必要もなかった。

私は、制服のおかげで自由だった。


大学では、みんなおしゃれだ。みんなとっても似合っているし、流行にのっていて、垢抜けていて。それが当たり前らしかった。服装におしゃれなのはもはや当たり前すぎて、そうでない人を探すのは難しかった。毎日、くるくると違う服を着て来て。

服のチョイスには、自分をどう見せたいか、自分をどう理解しているか、どれくらい財力やセンスがあるのか…そういうのが全部込められている。ということを人々が知っているということを私は知っている。

フーコーのパノプティコンのように、私の中にそういう「人々」がいる。

私と会った人、すれ違った人、列車で乗り合わせた人。彼ら彼女らは、私の好むと好まざるとに関わらず、私のことを私の知らない内心でジャッジする。それから逃れることはできない。

私は、いま。私服という不自由な衣をまとっている。

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