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他人の死を意味づけること

あらゆる死について、「死」以上の意味付けを行おうとするから、「死」がコンテンツ化されるんじゃないのかなぁ、と思っている。ずっと。

なぜ死んだのかを勝手に想像したり、どうして防げなかったのかと考えたり、死んだ後になって「大好きだったのに、すごく残念です」と誰かに向かって伝えたり。

そういうことは、生きている人間が生きている自分のためにすることであって、決して、失われたもののためにしていることじゃない。
生きている人間は生きている人間のためにしか動けないし、生きている人間にしか働きかけられない。生きている人間は、生きている自分のために、他人の「死」を利用する。

利用しているという自覚なしに、120%の善意でもって「死」をコンテンツ化する人たちの、その無邪気な発言が、また人を殺すんだろうと思う。

どんなに残酷だと言われても、どんなに冷たいと思われても、倫理性に欠けると揶揄されても、私は、できる限り「死」から意味性を排除する姿勢を取り続けたい。
たとえそれが生きている限り不可能なことであっても。

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