ざるうどん

この名前は、ものを書いたり読んだりするときに使われるものです。 別の名前で現実を生き、…

ざるうどん

この名前は、ものを書いたり読んだりするときに使われるものです。 別の名前で現実を生き、別の名前でフリーランスのWebデザイナーをしたりゲームをしたりTwitterをしたりしています。 パッシブスキル:方向音痴レベルMAX

最近の記事

他人の死を意味づけること

あらゆる死について、「死」以上の意味付けを行おうとするから、「死」がコンテンツ化されるんじゃないのかなぁ、と思っている。ずっと。 なぜ死んだのかを勝手に想像したり、どうして防げなかったのかと考えたり、死んだ後になって「大好きだったのに、すごく残念です」と誰かに向かって伝えたり。 そういうことは、生きている人間が生きている自分のためにすることであって、決して、失われたもののためにしていることじゃない。 生きている人間は生きている人間のためにしか動けないし、生きている人間にし

    • 母は料理が嫌いなのだと思っていた。

      私の記憶にある母は、ずっとフルタイムで働いていた。家に篭って家事をするよりは、仕事やお稽古ごとで外に出たがるひとだった。今でもそうだ。定年退職した父を家に残し、週に数日はパートで働きに出ているらしい。 弁当には冷食が詰められることも多かったし、毎日の夕飯もそんなに凝ったものが出たわけじゃなかった。レトルト食品が食卓に並ぶことも多かった。朝食は各々がパンを食べた。 それが私にとって当たり前の食卓だった。特に不満はなかった。母は料理があまり好きじゃないし、得意でもないのだから。

      • 【メモ】自己とは何か【京大オンライン講義】

        京大のオンライン講義を視聴して考えたことのメモ書きです。 続く講義を聞くにあたり自分の自己観をまとめておこうと思っただけなので、ほとんどは講義の内容を踏襲したものではありません。 最後に少しだけ、講義と絡めたメモ書きがあります。 動画はこちらから 私の個人的な「自己」観現時点での個人的な「自己」観です。 「自己」=「世界に対する認識の起点」と捉え、自己による認識が「世界」である、という考え方がベースです。 「自己」が他の自己を内包する構造になります。 ※ ややこしい

      他人の死を意味づけること