『私の愛した能登半島』能登半島地震体験記②能登半島地震発災

①の続きになります。
(よろしければ、そちらもお読みください。)


①急な揺れ

2024年1月1日16時10分。
リビングで4分前の地震についてのテレビを見ていたときでした。
ガタッと音がした瞬間でした。

突然、大きな揺れが能登半島を襲いました。

まるで、家をまるごと回されているような感覚。
なにより、今まで経験したことのないほどの揺れ。

「本当に地震なのか!?」

私は叫びました。
揺れは収まる気配もなく揺れ続け、テレビがジャンプしながら床に落ちていくと同時に家の電気が全て消えました。
そして、揺れているときには気づかなかったが、揺れているときに大きな音がしました。
今思うとそれは、
・屋根瓦が落ちた音
・ブロック塀が倒れた音
・隣の家が私の実家に倒れてきた音
だったのです。

私は初めて死の恐怖を感じました。

「早く終わってくれ。」

それでも揺れは収まりませんでした。
私の体感では、3分ほど揺れているという感覚でした。

やっと揺れが収まり、私は母親と妹とチワワ2匹と呆然としていると、

「外に出ろ!」

父親の声がしました。
私達は、「津波が来る!」と思い、外に出ようと動き出しました。

しかし、履いていた靴がある前の玄関に向かう通路は大きな食器棚が倒れて通れない状態でした。
なので、私たちは後ろの方から外に出ることにしました。

②恐怖を感じながら

一心不乱に外に飛び出した私。
外に出ると近所の人が「大変なことになりましたね。」と話しかけてきました。

そのとき、私の目には衝撃的な光景が飛び込んできました。

近所の家が倒れ、道路を塞いでいたのです。道路はヒビ割れ、ブロック塀が倒れていました。

「早く高台に避難しましょう」

私は家族や近所の人と高台に避難しようと移動を開始しました。

そのとき、さっきまで家族と初詣に行こう集まっていた前の玄関から見えた大きな通り。
そこから見える光景は大きく変わっていました。

5分前まで、いつもと変わらない、穏やかな正月の雰囲気を感じた通りは、避難する人々の恐怖に満ち溢れていました。

私は、チワワを入れたカゴを持ち、無心で近くの高台に走っていました。
あのときは、自分の命のことしか考えれていませんでした。それぐらい恐怖に苛まれていました。

③避難しても…

高台で家族全員集合してから、近くの中学校まで移動しました。

しかし、中学校はとてもじゃないが、避難所として機能できる状態ではありませんでした。

窓が外れた体育館。
隆起で渡れたテニスコートやグラウンド。
そして、学校全体に鳴り響く火災を知らせる放送。

地震による誤作動ではあったものの、私たちの不安や恐怖はより感じるようになっていました。

避難しても全く気が収まらず、行き場のない状況でした。

そのとき、学校のグラウンドで小さくまとまっていた私は、もっと高台に移動している人たちに気づき、家族に

「中学校がだめなら、自衛隊の基地に行こう。」

と提案しました。

④助けられた自衛隊基地、そして

私は家族と一緒に自衛隊の基地に避難しました。

そこでは自衛隊員の方々が毛布や食料など必要な物資を配ってくれました。

それでもまだ安心できる状況ではありませんでした。
続く余震。
それと同時に皆のスマホから鳴り出す緊急地震速報。
避難訓練のときにでも「聞くことは二度とないだろう」と思っていた津波警報のサイレン。
そこから見える火災の煙。あとからわかったのですが、輪島の誇る伝統ある朝市通りが燃えていたのです。

私は行き場のない恐怖を感じていました。
これからどうなるのか。

そんなときでした。

自衛隊の基地に高校時代からの友人が避難していたのです。

「おう、無事やったか。」

そう声をかけられると、私は恐怖の中に少しの嬉しさを感じました。

家族だけでなく、友人も無事だった。
その事実が私の心の支えになってくれました。

人が恐怖を感じたとき、支えてくれるのは人との関係だと感じました。

先が見えない中で、私は少し前を向けるような気がしました。

〜③に続く〜





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