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ウサギちゃんセイグッバイ

 俺の母親はヤバい奴だ。ヤバい奴というのは大抵、ひとりぼっちでもまったく平気か、過度に寂しがり屋かのどっちかで、母は寂しがり屋の方だ。

 不思議なのは、寂しがり屋という奴は、人との繋がりに飢えているクセに、誰かと親しくなっては壊す、人間関係のトラブルを繰り返す。

 二〇〇七年のクリスマスに、俺は母の寂しさを埋めるのは、なにも人で無くてもいいんじゃないかと思い、ハムスターをプレゼントした。ある種の実験で、もし母が興味を示さなくても、犬や猫ならともかく、ハムスターぐらいなら俺が引き取って面倒見れるだろうと考えていた。

 そんな心配は杞憂に終わり、母はハムスターに、『キャロル』という名前を付けて溺愛した。――「クリスマスキャロル」からとったと言っていたが、母の持っている小説は赤川次郎、筒井康隆、シドニー・シェルダンぐらいしか見たことがない。きっとディケンズを読んだことはないだろう。――キャロルも愛玩動物としての自分の宿命を知っているかのように、母の愛に健気に答えた。ハムスターの為にシチューを煮込む人間も、椀に顔を突っ込んでシチューを食べるハムスターも、俺は他には知らない。

 キャロルと暮らしだして一年近く経った頃、家で酒を飲んでいた母にキャロルが話しかけたらしい。「一緒に太郎と三郎に会いに行こうよ」と。
 その頃俺は地元の立ち飲み屋で働いていて、弟の三郎はもう少しマシなちゃんと椅子のある飲み屋で働いていた。その晩、母はトートバッグの中にキャロルを突っ込んで、オレたちに会うため繁華街へ出た。それで翌朝にはキャロルを失っていた。

 母の落ち込み方は本当にヤバくて、オレたち兄弟はそのヤバさに同情出来るほどの器がなく、「ウゼェな」と思っていた。可愛がっていたペットを失った母に対してウゼェという感情を持つことに少し心が痛んだ。

 しばらくの間、母は警察に毎日、「ハムスターが保護されていないか」と電話をし、自身でも繁華街を捜索していた。弟はその姿を目撃した同僚に、「お前んとこのお母さんが販売機の下を覗いて歩いていたが大丈夫か?」と言われたそうだ。

 二〇〇八年にキャロルの居ない虚無のクリスマスを過ごした母を見て、俺は年明け一月八日が誕生日の母に今度はウサギをプレゼントした。ウサギぐらいのデカさなら無くさないだろうし、キャロルへの溺愛ぶりを見れば、ちゃんと世話もできるだろうと思った。
 予想に反して、母は最初ウサギのことを可愛がらなかった。俺が連れて帰ってきたウサギは見てくれが悪かったが、それが原因という分けでもないだろう。何かが代わりになるほどペットと人の関係は希薄なものではないことを、俺は理解していなかった。

 後に牛男(うしお)と名付けられるこのウサギは、名前の通り牛みたいな白と黒のまだらで、目の周りの黒い模様と左右で白目の割合が違うせいで目つきが悪く見えた。ホームセンター内のペット売り場で、ケージの中から人を睨んでいるようだった。

「こんな不細工なウサギ、俺が買わなければ、誰も買わないだろうな」と思った。誰にも買われないんじゃないかと思っていたのは俺だけではなかったはずで、値段が他のミニウサギよりも安かった。ケージに吊るされていた札には2980円という数字と、岡山県産ということが書かれていた。生れ月もどこかに書いていたはずだがそれは忘れた。とにかく俺は、そいつを原付に乗せて帰った。

 渡された時に、「こんなカステラ詰めるような箱に入れるんか」と思った四角くて白い箱を家で開けると、ホームセンターではふてぶてしく見えた牛男は、寒かったのか、原付の振動に怯えたのか、小さくなり固まっていた。

 デリケートでか弱い。子ウサギってそういう生き物として扱われるべきなんじゃないかと思うが、牛男がやって来たその晩から、母と、山賊のような笑い方をする母の彼氏は、牛男の借りの寝床として用意されたデカいダンボールの横で、騒がしく遅くまで酒盛りをした。生命力至上主義の家風の中に放り込まれた彼には、きっとストレスが沢山あったはずだ。しかし、やっぱり生き物というのは逞しいもので、その内に牛男は自然と家に馴染んでくれた。

 初めは酔うたびに、牛男の襟首を乱暴に掴んで持ち上げながら、「こんな奴じゃなくてキャロルを返してくれ」と喚いていた母だったが、いつの間にか牛男の面倒をちゃんとみるようになっていた。元々が世話を焼くのが好きな性格なのだ。

 その甲斐あって牛男もよく懐き、と言いたいところだが、牛男には愛想がなかった。思えばハムスターは鈍くさくて警戒心が薄かった。それと比べれば牛男はもう少し野性的で、抱こうとすれば暴れ、かまおうとすればソッポを向いて逃げた。そのくせ放っていたら後を着いてくる。なんのつもりか知らないが、歩いている人間の足の間を通り抜けグルグルするのが好きだった。

 夜中ケージの中でガサゴソうるさいので、出してやって、そのまま朝まで放し飼いにしてやることが多かったが、寝ていると寄ってきて、布団の上に乗っかった。腹の上なんかだとまだいい方で、どういう分けか、寝ている俺の頭の上に乗っかって、鳥が止まり木の上に居るみたいに、そのままジッとしている事もあった。それでも、絶対に一緒に寝ようとはせずに、布団に入れてやったり抱いたりしてやろうとすると必ず逃げた。猫のように気まぐれだが、草食動物なせいか、猫ほど無防備に人に身を任せることはなかった。

 牛男は夜中に寝ている人間の邪魔をすること以外にもうひとつ、ものを囓ることにも熱心だった。夏は扇風機、冬はヒーターのコードを囓るのがお気に入りだった。チャールズ・ブコウスキーの『町で一番の美女』という本も牛男のお気に入りで、どういう分けか何冊も置いてある俺の本の中から、毎回町で一番の美女を狙って表紙を食った。いい趣味をしているなと思った。

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 キャロルが可愛らしい赤ん坊だとすれば、牛男はもう少し年長のもの、元気にご飯を食べて、ちゃんと寝て、あとは好きなことをしていれば安心する。母はそんな風に彼のことを扱っていた。

 たまに外に連れ出していて、母が善モードの時は公園で遊ばしていた。まだ子ウサギの頃はカラスや野良猫がやって来ると固まって動かなくなるなんてことを言っていたが、かなりデカくなってから、母と牛男の花見に付き合った俺が見たときには、他の動物に怯えることなく、ノビノビと遊んでいた。後年は無駄に広いL字型のベランダで牛男の小屋を掃除していると、横でおとなしく様子を見ていた牛男が、ベランダの中に進入してきた野良猫をダッシュで追いかけていくというようなこともあった。そのまま、とても通れるとは見えない、隣との仕切りの狭い隙間を通ってしばらく帰ってこなかった。早くて逞しいウサギだった。

 酔っ払いというのは絶対に懲りないもので、ダーティーなモードの時には、母は飲みに行くのに牛男を連れ出した。キャロルを入れていた、あのトートバッグに突っ込んで。

 住んでいた家の二十メートルかそこら先に、社だけの小さな神社があって、母は酔っ払った状態で、そこまで辿り着いて力尽きることが多々あった。俺は夜中にそこで俯せで眠る母と、起こそうとしているのか、母の頭を掻いている牛男を見かけたことがある。とりあえず心配なので、牛男だけ連れて帰った。翌朝、母は泣きながら帰ってきて、「牛男がいない!」と叫んでいたが、ケージの中にいる彼の姿を見て崩れ落ちながら安堵していた。

 部活帰りと思われる、坊主頭の高校生が、母と牛男を両脇に抱え、「そこの神社にいました」と連れて帰ってきてくれたこともある。思い出すたびに、もう少し丁重に高校生へ礼を言っておきたかったという気持ちになる。

 デカいから無くさないとかそういう問題ではなく、牛男はその優しさから、母の元からいなくなることはなかった。

 母のことをヤバい奴だと思いながらも、フラフラとどこかへ行ったり、家に帰ったり、二十代の間中、俺は実家のことを都合よく使っていた。三十になる少し前に、付き合っていた女性にフラれて、それでどこかへ行くような元気がなくなって、フラフラせず家にいた時期がある。起きてから寝るまでの間、ずっとウィスキーを飲んでいて、出かけるときはスキットル型のトリスの小瓶を持ち歩いていた。ツイていないことが重なる時期で、アル中みたいに酒を飲む期間は長引いた。

 最初はジョニーウォーカーとアーリータイムスを交互に買っていたが、金がどんどん無くなっていくので、途中から、『凛』というウィスキーを名乗る、アルコール入りのどぶ水を飲むようになった。それだけ飲んでいると、ションベンが異様に近くなる。トイレに行くたびに、牛男は不審な表情で俺を見ていた。たまに気まぐれで撫でてやると、牛男はグイグイと頭を手のひらに押しつけた。そんでお返しのように、俺の手を舐めてくれた。雄弁は銀、沈黙は金なんて言葉はウサギの為にあるようなもので、俺がどうしようもないことをウジウジと言うのを牛男は黙って聞いていた。優しくて、彼自身はなにも文句を言わない寡黙な男だった。

 その内に立ち直って、俺は何年か後に新しい恋愛をして結婚した。それでまったく新しい新居を借りたが、そこへ母が、「自分も引っ越ししたいから、数日牛男を預かってくれ」と持ってきた。嫁が牛男の世話をしてくれた。仕事から帰ると、嫁は、「掃除していると牛男が私の後を着いてきて、足の周りをグルグルと回る」と嬉しそうに話した。
 この頃には物を囓ることも無くなっていて、若い時と比べると、随分おとなしくなっていた。ダッシュはもう出来なさそうに見えるほどには老いていた。
 母が牛男を引き取りにきた後、嫁は少し寂しそうだった。後日なにかの拍子で隙間から牛男のフンが出てくるということが何度かあって、その度に俺もコロコロのウサギのフンを見ながら、感傷的な気持ちになった。

 母は山賊のような笑い方をする男と比喩ではなく、実際に殴り合いをしながら十五年以上も付き合っていたが、男の体が持たなくなって、ある日別れた。その頃には俺を含め、三人いる子供たちはそれぞれの家庭なり生活があって、誰も母と住もうとはしなかった。
「男の子っていうのは、いずれ親よりも彼女や嫁を大事にするようになる。いずれあなた達は私を捨てるんだから、私はあなた達より、ずっと一緒にいてくれる彼を大切にする」
 山賊の前にも何人か居た母の彼氏たちと、俺たち兄弟の誰かが揉めると、決まって母はそう言って彼氏の味方をした。その言葉は悪いところだけ本当になった。
 母はモテて、俺が物心ついたときからずっと彼氏がいた。子供も三人も産んだが、六十を過ぎて側にいるのはウサギ一羽だけになった。たちが悪いのは、俺たち兄弟は愛されなかった訳ではない。それはみんなわかっている。俺もキャロルも牛男も、不器用な愛を受け取っていた。

 それでやっぱり、完全には放っておけなくて、たまに様子を見る。母の家へ行くたびに、帰る前には牛男に挨拶をした。ここ数年はほんとうにお爺ちゃんという感じで、開けっ放しにされたケージから出てくることもなく、いつもじっとしていた。目はキツさが無くなり、白く濁ってほとんど見えていないようだった。「ケージの外へ出ると、すぐに頭をぶつけるから、あまり出たがらない」と母は言っていた。

 生命力至上主義だった母は、自身の衰えと共に、病院は必要だということを認識したのか、お腹を壊す程度のことでも、何かあればすぐに動物病院へ牛男を連れて行ったが、食欲がないのも、あまり動かないのも、目が濁るのも、歳だからしかたがないことなのだそうだ。「寂しいから私よりは長生きして欲しい」と母は自身の不調を訴えながら、言っていた。

 唐突だが、牛男は童貞ではない。彼が壮年の時に、近所に小動物を多く扱うペットショップが出来て、そこが母の行きつけになった。ペット同士のふれあいイベントをやっていて、モテるウサギはそこで飼い主同士話をつけるが、ネザーランドドワーフだとかロップイヤーだとかそういう品種が居る中でニーキュッパの牛男はモテなかった。おまけに粗暴で、どのウサギが飼い主の所まで早く行けるかなんてほんわかした競争をする中で、牛男は母に目もくれず、他のオスウサギにマウンティングをとった。

 ウサギのマウンティングというのは、自分より下だと思うもの相手に、乗っかって腰を振る。母は、「牛男はホモだ」となぜか嬉しそうに言っていたが、他の飼い主達からは当然嫌われた。

 お見合いなり恋愛なりで結婚することは諦めて、店で売られていた灰色のメスを母は買ってきた。ねずみ色なので、有名なねずみのメスから名前を取って、「ミニー」と名付けられた嫁はすぐに妊娠した。新婚なのに別々は寂しいだろうという理由で、出産間近まで同じケージに入れていた。俺たちは誰も、ウサギが妊娠中も追加で妊娠できるということを知らなかった。

 別のケージで子供を産んだあと、数日後さらに追加で子ウサギが生れているのを見て、母は驚きの余り叫んでいた。第一子たちの引き取り手は母の友人のつてを頼り決まっていたが、一回の出産で四、五羽生れるウサギを第二子達までとなると、見当がつかない。母の理想は牛男とミニーに子供一羽の核家族構成で、実際にそれ以上となると、手に負えそうにない。

 仕方がないので、俺の友人たちにも引き取り手探しを拡大したが、それでも捌ききれないので、ジモティーに、「ウサギ貰ってください」という募集を掲載した。これはかなり効果があって、ウサギたちは順調に引き取り手が見つかっていった。大体家の近所の公園でウサギを引き渡すのだが、貰いに来てくれるのは大抵、大きなファミリータイプの車に乗った、お父さんお母さんと子供の三人組で、幸せそうに、どの子を向かえるか悩みながら決めていた。こっちからしてみたら、「貰ってくれてありがとう」だが、向こうは向こうで、「無料でお譲りいただいてありがとうございます。大切に育てます」というような感じで御丁寧な礼を言ってくれる。そして子供が大切そうに子ウサギを抱えて車に乗り込む。そんなやり取りを何回かしている内に、母は、「私なんだか良いことしているような気になってきちゃった」とふざけたことを言っていた。

 普通はこれで終わるはずだが、母はヤバい奴なので、酔っ払った時に、「可哀想だから」と牛男とミニーをケージから出して一緒にしてやった。何度も何度も、酔う度に。
 それで次から次へとウサギが生れた。松山中のウサギが欲しい人たちにウサギを配り終えてもまだ、我が家にはウサギがいた。俺は諦めて、全て野に返すしかないと思ったが、牛男を買った、ペット売り場に力を入れるホームセンターで母が店員に相談すると、無料で子ウサギを引き取ってくれることになった。ウサギを引き取っても売れなかったら処分するんじゃないかと怪しんだ母は、店員の甘言を信用せず、二日に一度のペースでホームセンターのウサギ売り場をチェックしに行きながら、無限ループと思われるペースでウサギを送り込んだ。牛男のことを叩き売りしていたのに、どういうわけか、「珍しいので、牛男と同じ柄が生れたらお金出して買い取る」と言われたそうだが、結局同じ柄は一羽も生れなかった。

 母のブリーダーのような生活は、ある日、ミニーが体調を崩したことによって終わる。母は泣きながらミニーを病院に連れて行った。「自分の手元に置いていると、どうしても繁殖させてしまう。それだと母体であるミニーの体に負担を掛け続ける。それを避けるには、ミニーを手放すか、牛男を去勢するか」牛男を玉なし野郎にしたくなかった母は、ミニーを手放すことを選んだ。

 子ウサギならともかく、ミニーに貰い手は見つからないだろうと思ったが、母の飲み友達の郵便局員の、お婆ちゃんが貰ってくれることになった。あれだけ沢山子ウサギが生れたが、結局母の元には牛男だけが残った。

 玉は残ったところで、それ以降使うことは無かったが、それでも牛男は男のまま、この夜を去った。
 二〇二〇年の十二月二十五日。俺は仕事中で、おまけにいつもより格段に忙しかった。そこへ母から着信があったので無視した。その後にLINEが送られてきたので確認すると、長文の中に、「二十二時ちょうどに牛男が死んだ」と書いていた。母は死んだ牛男の写真を何枚も添付してきた。それで三分半仕事を放りだして母と通話した。

 仕事が終わった早朝に、母にもう一度電話して、その後ペットの葬儀屋に電話した。笑ってしまうぐらい慇懃に葬儀屋は対応してくれた。

 その日の午後には葬儀が行われることになり、俺は原付で母の家へ行った。喪服としても使えるスーツを着ていこうかと思ったが大仰な気がして、それは母の葬式までとっておくことにした。

 狭いワンルームの部屋の中は牛男のションベンの匂いがした。母は、「死んだときに大量に体液がでた」と説明した。そして、「もう生き返らないよね」と牛男の遺体を俺に確認させた。固くて、どう考えたって、牛男は死んでいた。

 一時に葬儀屋が迎えにくるというのに、母は十二時五十分に棺に一緒に入れるために人参を買いに行った。絶対に間に合わないだろうと思ったが、葬儀屋が来るのと同時に、帰って来た。

 ペット用のキャリーにも、葬儀屋が用意してくれた棺にも入れずに、母はタオルに巻いた牛男を抱いて車に乗った。牛男を撫でる母の手が、シワだらけの老人の手だった。
 俺は牛男が乗り物が苦手だったことを思い出した。引っ越しの都合で、キャリーに入れた牛男を抱いて、友人の運転する車の助手席に乗ったことがある。牛男はビビった様子で、ションベンをした。かなりの量で、俺が少しでもバランスを崩すと、車内はションベンまみれになるところだった。

 葬儀屋で棺に入れられ、祭壇の前に牛男は置かれた。ずっと巻いていたタオルを外すと、メチャクチャに痩せているように見えた。
 事前にオプションで頼んでいた、供える花を選ぶ段取りで、母は、「なにも考えられない」と言ったが、俺が選んだ花に、「白いのが多いのは嫌だ」とダメ出しはした。

 葬儀に入る前に、まず選択の連続で、オプションが満載だった。納骨堂を見せられて、「今日中に場所を押さえとけば割引が効く」と言われた。全部母の好きなようにさせてやるべきだと思った。母は家に置いときたいと言った。それで葬儀屋は、「かなり強いショックを受けているので、経験上家に置いておくと、いつまでも立ち直れない」と俺にもっともらしいことを言った。俺は四十九日が終わったら、骨を分けてもらって部屋に飾ろうと思いながら、「割引はなくていいから後日決める」と断った。

 母が牛男と別れを惜しんでいる間に、代わりに書類を記入した。牛男のことを、『牛尾』だと思っている人が何人か居る。牛男からしてみればどっちでもいいと思う。名前の欄はひらがなにした。性別は間違いなく男で、年齢は長生きなことを母が脳内で誇張しすぎて、十六歳だとずっと言っていたので、そんなはずはないが十六歳にした。事務員の人が、「一緒に入れてやってくれ」と六文銭を印刷した紙をくれて、その流れで、ウサギの足にはめる小さな数珠を進めてきた。死んだウサギに数珠をはめるのは、マルチーズの毛を紫に染めるのと同じぐらい人間の自己満なので断った。「遺骨を入れられるペンダント型のケース」も進められてそれも断り、ようやく骨壺と骨壺を入れる袋を選ぶことになった。ペット葬らしい可愛いデザインのものが沢山あったが、人間の骨を仕まうのと同じ一番渋いやつを選んだ。絶対そっちの方が格好いいから。母の家に置いておくものなので、念のために骨壺と袋は母に確認した。母はやはり、「なにも考えられない」と言いながら、「牛男は男の子だから、ピンクとか、可愛らしいやつはやめてくれ」と注文した。それなら俺の選んだもので問題なかった。

 会計を済ませ、ずっと我慢していたトイレに行って祭壇に戻ると、母が葬儀屋に、「般若心経を止めてくれ」と注文していた。創価学会でもエホバでもアムウェイでも勧誘されるとなんでも入る母は、「牛男は毎日、私が唱える『何妙法蓮華経』を聞いていたから」と言い、葬儀屋は、「コロナの影響で今は閉鎖しているが、通常時は七階に学会員専用の施設がある」と説明していた。自分で選ぶ術を持たない動物の世界に、そこまで宗派を持ち込むのはなんかキモいなと思った。俺の葬式ではみんなで好きな曲でも歌って欲しい。

 棺の中にさっき貰った六文銭と花、母が持ってきていた数珠、普段食べていたエサと、牛男のケージに入れていた、ピンク色で手のひらサイズのウサギのぬいぐるみを入れた。母が寸前で買ってきた人参を入れようとしたが、「そのままだと火葬時に燃え残るから」と、細かく刻むように言われた。
 母が事務用のハサミで人参を刻んでいる間に、俺は牛男を撫でた。どれだけ撫でても、もう頭を押しつけてくることも、お返しに手を舐めてくれることも無かった。ウサギの耳は長かった。

 俺も母も焼香のやり方が分からなかった。そもそも牛男にそんなもの必要かと疑問に思った。それでも何となく雰囲気で焼香をして別れを惜しんだ。
 火葬場に移動して、五分か十分かそこらロビーで待ったあと、火葬台に乗せられた牛男と再開した。プロの技というのはやはり凄いもので、牛男は笑っているように見えた。綺麗で賢いウサギのようだった。
「最後のお別れをしてあげてください」と言われ、また牛男を撫でた。白と黒のまだらの毛に俺は触れた。

 ワクワクしている。牛男はそんな様子だった。火葬炉の中へ入っていく様は、宇宙飛行士がシャトルに乗り込むようだった。「次の場所へ行ってくるぜ」そんな風に言っているように見えた。
 また三十分ほどロビーで待った。母に、「骨を入れて持ち運べるペンダントをいるか」訊くと、「そんなもの要らない。持ち歩かないわよ」と答えた。缶コーヒーを飲んで、タバコは我慢して待った。

 三十分後に牛男の骨と再会して、葬儀屋がどこの骨だ、これは爪だと説明してくれるのを聞いたあとに、最初は箸で、途中から手で遺骨を拾った。ウサギにものど仏があるんだと感心した。
 一緒に入れたエサは、炭のようになりながらシッカリと形を残していた。それとウサギのぬいぐるみは、わりとハッキリとシートに形が染みのように写っていた。

 骨壺に蓋をしたあと、なんだか名残惜しくて、火葬台をさわった。骨の欠片に触れて、もったいなくて、手に持ったまま火葬場から出た。すぐにボロボロになりそうだったので、少しはマシかと思い、その骨をキャメルの箱の中に仕舞った。

 少し歩いて、適当な飯屋に入って母と昼飯でも晩飯でもないものを食べた。途中で席を外した母は、「葬儀代はいくらだったか」と言いながら、金を持って現れた。俺は、「いらない」といい、母は、「これじゃ足りないか」と言った。足りなかったが、それで十分だった。

 飯屋を出て、タクシーを拾った。途中で母が、「これからは出かけるときに、『行ってきます』も、帰った時に、『ただいま』も言う相手がいない」と言った。牛男はみんなが放棄した、寂しがり屋の相手を生涯勤めた。

 枝豆が好物だった牛男に備えるため、その足で買いに行くという母と、彼女の家の前で別れた。俺も帰り道で買い物を済ませようかと思ったが、なんだかんだで葬儀が昼から半日掛かったこともあり、夜間働いている俺は眠すぎて結局なにも買わずに帰った。
「今日が休みで良かった」と、牛男が日を選んでいってくれたように思いながら俺は寝た。

 真夜中に起きて、何となくそうすることが相応しいような気がして、ウィスキーを飲みながら散歩した。
「牛男、畜生、バイバイ。寂しいよ」
 酒だけじゃ足りなかった。




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